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大阪地方裁判所 昭和48年(わ)2747号 判決

中村稔

桑原二郎

高木眞彦

右三名に対する各業務上過失致死傷被告事件につき、当裁判所は、検察官小見山道有出席のうえ審理し、次のとおり判決する。

主文

被告人三名はいずれも無罪。

理由

(理由目次)

第一はじめに

一  本件公訴事実の要旨

二  弁護人らの主張

三  証拠

第二日本ドリーム観光株式会社及び千土地観光株式会社について

一  日本ドリーム観光株式会社について

二  千土地観光株式会社について

第三千日デパートビル及び千日デパート管理部並びにプレイタウンについて

一  千日デパートビルについて

1 沿革及び周辺状況

2 千日デパートの営業形態

3 千日デパートビルの構造

4 同ビルの出入口、階段等の状況

5 同ビルにおける消防用設備等の設置状況

二  千日デパート管理部について

1 同管理部の組織

2 同管理部の業務内容及び同部次長の権限

3 千日デパート閉店後の同ビル内の管理状況

三  プレイタウンについて

1 プレイタウン店内の状況

2 同店の営業形態

3 同店の各階段及びエレベーターの利用状況

第四被告人らの経歴

一  被告人中村

二  被告人桑原

三  被告人高木

第五本件火災の概略

一  千日デパートビル三階からの出火状況及び工事関係者、保安係員らの対応並びに火災の拡大状況

二  プレイタウン店内への煙の流入経路及びその流入状況

三  工事関係者らが出火を覚知した時刻及び出火原因

第六本件火災当時のプレイタウン店内の状況及び死傷者の発生

一1  客・従業員らの在店状況

2  客・従業員らの煙覚知及び対応状況

3  換気ダクトの開口部からの煙の流入と、これに対する被告人高木その他の従業員の対応及びクローク付近の状況

4  煙の充満のため店内が混乱状態に陥つた状況

5  救助袋の投下及び死傷者の発生状況

6  更衣室内への煙の流入及び同室内にいたホステスらの対応

7  消防隊のはしご車等による救出活動及び本件火災による店内外における客、従業員らの死傷の状況

二1  検察官の主張する個個の出来事の発生時刻及び被告人高木の行動

2  当裁判所が本件火災当時の状況を認定するにつきその基礎とした主たる証拠資料

3  当裁判所が個個の出来事の発生時刻及び煙の流入状況を認定した理由

4  被告人高木がホールへ出て来てから、F階段へ向かうまでの行動

三  救助袋の入口が開かなかつた理由

第七被告人中村の過失責任の有無について

一  被告人中村が防火管理者としてなすべき業務

二  煙のプレイタウン店内への流入の予見可能性

三  千日デパート閉店後の防火体制

四  同デパート閉店後売場内の防火区画シャッターを閉鎖しておくことの必要性について

五  右防火区画シャッターを夜間常時閉鎖する義務はない旨の弁護人らの主張についての判断等

六  右防火区画シャッターを閉店後閉鎖するための体制づくりの可能性についての検討

七  右防火区画シャッターを閉鎖していなかつたこと及び保安係員を三階の工事現場に立ち合わせていなかつたことについての被告人中村の過失責任

1 本件火災当日だけでも防火区画シャッターを閉鎖しておくことの可能性について

2 三階工事現場に保安係員を立ち合わせることについてのドリーム観光側の義務

3 保安係員を立ち合わせなかつたことについての被告人中村の過失責任

第八被告人桑原及び同高木の過失責任の有無について

一  右両名の業務内容とその職責任及びB階段からの避難誘導の可能性等について

1 防火対象物

2 被告人桑原の業務内容

3 被告人高木の業務内容

4 プレイタウンにおける消防訓練の実施状況及び右両名の防火意識

5 B階段の安全性について

6 被告人高木が、仮に防火管理者としての業務を忠実に遂行していた場合に、同被告人が立案したであろうと考えられる避難計画及び南側エレベーターの昇降路からの多量、かつ、急速な煙の流入についての予見可能性

7 B階段へ避難誘導する方法での結果回避の可能性

8 B階段へ避難誘導しなかつたことと右両名の過失責任

9 救助袋の取替え若しくは補修の必要性とその可能性

10 救助袋を使用しての避難訓練の必要性

二  救助袋を使用しての避難誘導及び結果回避の可能性ないし因果関係

1 救助袋使用についての被告人高木の状況判断の可能性

2 救助袋を使用して避難訓練ができていた場合と地上でのその出口把持の時期

3 救助袋の設置された窓への誘導の可能性

4 更衣室にいたホステスらについての結果回避の可能性

5 救助袋を使用しての避難訓練ができていた場合と結果回避の可能性ないし因果関係

第九結論

(理由)

第一  はじめに

一本件公訴事実の要旨は、

被告人中村は、日本ドリーム観光株式会社の千日デパート管理部管理課長として、同会社が直営し、あるいは賃貸して営業している千日デパートビルについて、その維持管理の統括者である同管理部次長宮田聞五(本件審理中に死亡したため、昭和五二年六月三〇日公訴棄却)を補佐するとともに、防火管理者として、同ビル関係の防火上必要な構造及び設備の維持管理等に関する業務に従事していたもの、被告人桑原は、同ビル七階を右日本ドリーム観光株式会社から賃借してキャバレー「プレイタウン」を営む千土地観光株式会社の代表取締役として、右プレイタウンの経営管理を統括し、消防法令に基づく防火管理者その他部下従業員を指揮監督して、消防計画の作成、当該消防計画による通報及び避難訓練の実施、避難上必要な設備の維持管理等を行なうなどの業務に従事していたもの、被告人高木は、右プレイタウンの支配人として、被告人桑原を補佐するとともに、防火管理者として、前同様の消防計画及び避難等に関する業務に従事していたものであるところ、昭和四七年五月一三日午後一〇時二五分ころ、同ビル三階の大半を日本ドリーム観光株式会社から賃借使用している株式会社ニチイ千日前店の衣料品・寝具等売場において、株式会社大村電機商会の作業員ら六名が、右ニチイから請け負つた電気配線増設工事を行つていた際、同階東寄りの寝具売場付近から出火し、同階並びに二階及び四階をほぼ全焼するに至つたのであるが、

1 被告人中村及び宮田としては、同ビルが、前記のように、直営あるいは賃貸の店舗で雑多に構成されており、三階もニチイのほか、株式会社マルハン等四店舗が雑居するいわゆる複合ビルで、六階以下の各売場は、午後九時に閉店し、その後は各売場の責任者等は全く不在であり、七階のプレイタウンだけが午後一一時まで営業しているという特異な状況にあり、しかも火災の拡大を防止するため、六階以下の各階売場には、建築基準法令に基づき、床面積一五〇〇平方メートル以内ごとに防火区画シャッターがそれぞれ設置されていたのであるから、平素から右シャッターを点検整備したうえ、六階以下各売場の閉店時には、保安係員をしてこれらシャッターを完全に閉鎖させ、閉店後前記のように工事等を行わせるような場合でも、工事に最少限必要な部分のシャッターだけを開けさせ、保安係員を立ち合わせるなどして、なんどき火災が発生しても、直ちにこれを閉鎖できる措置を講じ、もつて、火災の拡大による煙が営業中のプレイタウン店内に多量に侵入するのを未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、いずれもこれを怠り、右シャッターの点検整備を行わず、かつ、同シャッターを全く閉鎖せず、前記工事に際しても、保安係員を立ち会わせることなく、漫然これを放置した過失により、火災を三階東寄りの一区画(床面積一〇六二平方メートル)だけで防止することができず、前記のように拡大させて多量の煙を七階に通ずる換気ダクト、らせん階段等によりプレイタウン店内に侵入充満させ、

2 被告人桑原及び同高木としては、閉店後の六階以下で火災が発生した場合、多量の煙が営業中のプレイタウン店内に侵入充満することが十分予測されたのであるから、平素から、救助袋の維持管理に努め、従業員を指揮して客らに対する避難誘導訓練を実施し、煙が侵入した場合、速やかに従業員をして客らを避難階段に誘導し、若しくは救助袋等を利用して避難させ、もつて、客らの逃げ遅れによる事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、いずれもこれを怠り、階段等の状況を把握することなく、また、備え付けの救助袋(一個)が一部破損し、その使用が困難な状態にあつたのに、新品と取り替え、あるいは修理することなく、漫然これを放置し、避難誘導訓練をしなかつた過失により、前記煙が店内に侵入した際、客らに対する適切な避難誘導及び救助袋等による脱出救助を不能にさせ、もつて、被告人三名及び宮田の前記各過失の競合により、プレイタウン店内で遊興中の客及び従業員らのうち、別表一記載のとおり栗村益美ら一一八名を一酸化炭素中毒等により死亡させ、更に別表二記載のとおり佐藤千代ら四二名に対し、一酸化炭素中毒等の傷害を負わせたものである、

というのであつて、なお、検察官の釈明や冒頭陳述等をも参照すると、検察官は、被告人中村及び宮田については、売場内の防火扉や防火区画シャッターを平素から閉店後は保安係員に閉鎖させ、工事等でこれを開ける必要がある場合には、必要最低限の枚数のみ開け、かつ、保安係員を立ち会わせるなどして、万一火災が発生した場合には直ちにこれを閉鎖できるような措置を講じておくべきであるのに、これを怠つたことにより、火災をその出火場所のある一防火区画のみで防止することができず、二ないし四階の各売場全体に拡大させた過失により、多量の煙をプレイタウン店内に侵入させたとして、火災拡大防止措置を講じなかつたことが、右両名の業務上の過失であると主張し、被告人桑原及び同高木については、六階以下の階で火災が発生した場合、プレイタウン店内から客や従業員が避難するためには、B階段のみが唯一安全な避難階段であるから、同階段若しくは救助袋を利用するしか方法がないにもかかわらず、平素から各階段の状況を把握していなかつたために、B階段の安全性を認識せず、かつ、救助袋を破損したまま放置していたことから、従業員に対しB階段や救助袋を利用しての避難誘導訓練をしなかつたこと、更に被告人高木については、本件火災当時適切な避難誘導をしなかつたことが業務上の過失であると主張し、かつ、被告人ら四名の各過失が競合した結果、公訴事実のとおり多数の死傷者が発生した旨主張するのである。

二これに対し、弁護人らは、被告人中村及び宮田について、六階以下の階で千日デパート閉店後に火災が発生した場合、公訴事実のような経路で煙がプレイタウン店内に侵入することは予見できないこと、防火区画シャッターを毎日閉店後閉鎖する義務がないこと、テナントが行う工事に同デパート管理部の保安係員が立ち会う義務がないこと等を理由に同被告人は無罪である旨主張し、被告人桑原及び同高木についても、プレイタウンでは消防当局の指導の下に消防訓練をしていたこと、同店内に煙が急速に充満し、かつ、客らが恐慌状態に陥つたため、避難誘導ができるような状態ではなかつたこと、ホールからB階段に至る通路に煙が急速に充満したため、B階段へ行けば安全に避難できることは判断できなかつたこと、救助袋は、破損していたとはいえ使用可能であり、その入口枠を起こすことができなかつたのは、従業員がその使用方法を知らなかつたからではなく、救助袋の投下されたことを知つた客らが我先に殺到したため、投下作業をしていた者らが脇へ押しやられるなどしたのが原因であること等を理由に右被告人両名は無罪である旨主張している。

三当裁判所は、本件各証拠を総合検討して事実を認定した結果、被告人三名は、いずれも無罪であると判断したので、以下当裁判所が右のように判断するに至つた理由を述べる。

なお、右事実の認定に供した証拠は、左記のとおり一括掲記したが、個個の判断理由中においても、適宜必要と認めるものについては、これを掲記した。

(証拠)〈省略〉

第二  日本ドリーム観光株式会社及び千土地観光株式会社について

一日本ドリーム観光株式会社について

千日デパートビルの所有者である日本ドリーム観光株式会社は、大正二年四月九日、不動産の売買及び賃貸並びに諸興行の経営等を目的として資本金二〇〇万円で設立された。その商号は、設立当時千日土地建物株式会社と称していたが、昭和二六年九月二八日千土地興行株式会社に、昭和三八年七月二五日日本ドリーム観光株式会社に順次変更され、資本金も数回にわたる増資の結果、昭和三九年二月一日には七六億円になつた(以下右各会社名はその時期を問わずドリーム観光という)。同会社は、本店を大阪市南区難波新地五番丁五九番地に、支店を東京都目黒区下目黒一丁目八番一号に置いている。

同会社は、設立以来劇場経営及び映画演劇等の興行を主として行つていたが、昭和二九年に松尾國三が代表取締役に就任してから、経営の多角化を図り、その事業を、劇場、興行、風俗営業、ショッピングセンター、游園地、ホテル等の経営へと拡大していつた。千日デパートは、右事業払大の一環として、昭和三三年一二月一日千日デパートビル内に開業したもので、その経営は、右開業と前後して設立された千日デパート管理株式会社が行つていたが、昭和三九年五月以降は、ドリーム観光内に千日デパート管理部を設け、同会社が直接右経営を行つている。

ところで、同会社は、昭和三八年六月三日、千土地観光株式会社(以下千土地観光という)を設立して、これに風俗営業部門の経営を行わせることにしたほか、昭和四一年五月には、株式会社新歌舞伎座、千日遊技株式会社、株式会社奈良ドリームランド、兵庫観光株式会社、株式会社横浜ドリームランドを設立し、かつ、千日デパート管理株式会社の商号を千日興行株式会社に変更して、これらに千日デパート及び忠岡ドリームボールを除くその余の営業部門の経営を行わせることにし、自らは千日デパート及び忠岡ドリームボールを直接経営するのみで、従前の営業部門については、千土地観光以下の七つの子会社にドリーム観光が所有する各営業施設等を賃貸し、その賃貸料を徴収するという管理会社になつた。各子会社の資本金はすべてドリーム観光が全額出資し、各子会社の管理職にはドリーム観光の従業員が出向しており、その人事、給料等はすべて親会社であるドリーム観光において決定している。

ドリーム観光及びその各子会社の代表取締役は、本件火災の発生した昭和四七年五月一三日当時、千土地観光を除いては、松尾國三唯一人であり、同会社のみ同人及び被告人桑原の二名が代表取締役の地位にあつた。

なお、ドリーム観光は、従業員のうち管理職員については身分職を定めており、これにより、同会社の管理職員は傘下の各子会社に出向している者も含めてすべて、上から順に参事、副参事、主事、主事補各一ないし三級のいずれかに格付けされている。ちなみに、各子会社の役員は参事もしくは副参事が、ドリーム観光の部長、次長は副参事が、同会社の課長及び各子会社の幹部は主事が、その余の管理職は主事補があてられている。

二千土地観光株式会社について

千土地観光は、本店を千日デパートビル内に置き、本件火災当時左の一〇店舗を経営していた。

大阪市内 大劇アルバイトサロン

カフェー赤いバラ

チャイナサロンプレイタウン(以下プレイタウンという)

キャバレーニュー大劇

キャバレー虹

アルバイトサロンユメノクニ

京都市内 クラブ香港

アルバイトサロンマンゴー

神戸市内 チャイナサロンしゅんそう

ミニサロンニューポート

同会社の資本金は一〇〇万円であり、取締役は前記代表取締役二名を含む五名であるところ、その日常業務は、松尾國三を除く四名の取締役において処理し、右各店舗の管理も右四名が分担しており、被告人桑原は、右店舗のうちプレイタウン、カフェー赤いバラ、キャバレーニュー大劇の三店を担当していた。

なお、前記各店舗は、すべてドリーム観光の資産であつて、千土地観光がこれらを賃借していたものであり、千土地観光は、ドリーム観光の稟議規定に従い、千土地観光の計算において支出すべき経費についても、その額が五万円以上のものについては、ドリーム観光の承認を得なければならない定めになつていた。

第三  千日デパートビル及び千日デパート管理部並びにプレイタウンについて

一千日デパートビルについて

1沿革及び周辺状況

千日デパートビルの前身は、ドリーム観光が、昭和七年九月ころ、大阪市南区難波新地三番町一番地及び四番町一番地の三に劇場として建築した鉄筋コンクリート造陸屋根地下一階地上七階塔屋二階建の建物(所在地の表示は本件火災当時のもの)で、歌舞伎座として使用されていたものであるが、昭和三三年五月から同ビルをショッピングセンターに改造するための工事を行い、同年一二月一日、千日デパートとして開業し、六階は千日劇場として開場した。

同ビルは、いわゆる大阪・ミナミの繁華街の中心部にあり、府道大阪枚岡奈良線千日前交差点の南側に位置し、同ビルの北側は右府道に、東側はアーケードの設置された通称千日前通りに、南側は通称難波中央通りに、西側は通称次郎兵衛横丁にそれぞれ面している。

2千日デパートの営業形態

千日デパートは、デパートという名称を用いてはいるが、旧百貨店法にいう「百貨店業を営むもの」ではなく、千日デパートビル各階の床面を区画して多数の小売業者に賃貸し、賃借人(いわゆるテナント)がその賃借部分に商品台、陳列棚等を設置して小売業を営む形態のいわゆるショッピングセンターであるところ、その開業当初は、ドリーム観光が予定していた数だけのテナントを集めることができなかつたため、売場用床部分のうち一部をテナントに賃貸して賃料及び附加使用料と称する共同管理費を徴収し、その余の売場は同会社若しくは千日デパート管理株式会社の直営とし、納入業者と称する多数の小売業者を入れて営業させ、その売上金の一定割合を徴収するという方法で営業していたが、昭和四二年には、納入業者制を廃止して売場用床部分の全部をテナントに賃貸するようになつた。そして、同年三月には、株式会社ニチイ(以下ニチイという)が、同ビルの四階売場部分全部を賃借してニチイ千日前店を開き、更に同年一〇月同ビル三階売場部分のほとんどを賃借してその店舗を拡張した。また、同ビル七階では、千土地観光経営のキャバレーであるプレイタウンが、同年五月一六日開店し、昭和四四年五月には、同ビル六階の千日劇場跡へもその店舗を拡張したが、昭和四七年四月一七日、右拡張部分を閉鎖し、同月二八日ころからは、同部分をボーリング場に改装するための工事が始められていた。

3千日デパートビルの構造

千日デパートビルは、建築後数次にわたつて改造工事を施されているところ、本件火災当時の構造、床面積、各階の使用形態は左記のとおりである。

構造 鉄骨鉄筋コンクリート造陸屋根地下一階地上七階塔屋三階建

延床面積 2万7514.64平方メートル (屋上を含む)

地下一階 床面積三八六〇平方メートル 電気室、機械室、人形館(ドリーム観光直営)ほか食料品スーパー、飲食店等二七店舗等

一階 床面積3796.64平方メートル保安係室ほか貴金属店、履物店等八二店舗(外周部分の一九店舗を含む)等

二階 床面積三七一四平方メートル

千日デパート事務所、売場事務所ほか衣料品店等四四店舗等

三階 床面積三六六五平方メートル

歯科医院、ニチイ従業員更衣室、ニチイ売場ほか衣料品店四店舗等

四階 床面積三五二〇平方メートル

ニチイ事務所、ニチイ売場等

五階 床面積二〇四九平方メートル

ニチイ事務所、店員食堂、均一スーパー(ドリーム観光直営)等

六階 床面積三三五〇平方メートル

千土地観光事務所、遊技場、ボーリング場(工事中)等

七階 床面積一七八〇平方メートル

プレイタウン、旧メキシコ領事館等

屋上 床面積一二九〇平方メートル

遊園地等

塔屋一階 床面積二〇〇平方メートル

鳥獣店、園芸店、飲食店等

塔屋二階 床面積一五六平方メートル

日本装備株式会社事務所等

塔屋三階 床面積一三四平方メートル

同会社事務所、電気室等

4同ビルの出入口、階段等の状況

千日デパートビルの一階には、別紙第二図のとおり、北東側に正面出入口があるほか、南側に三個所、西側に一個所、北側に二個所の計六個所の出入口が設けられているが、右六個所の出入口は、南側の最も東寄りにある出入口から時計回りに順次A、B、C、D、E、Fと名付けられているところ、B出入口はプレイタウン専用、D出入口は従業員専用になつている。また、別紙第一ないし第九図のとおり、同ビル内にはAないしFの各出入口に対応して、六個所に階段が設けられ、これらも右A出入口に位置する階段から右同様に順次A、B、C、D、E、Fと名付けられているところ、A、Fの各階段は一階から屋上まで、B、D、Eの各階段は地階から屋上まで、C階段は一階から四階までそれぞれ通じているのであるが、プレイタウンから利用可能な階段はA、B、E、Fの四階段である。

このうち、B階段はプレイタウン専用の階段とされているが、同階段へは、別紙第一ないし第八図及び第一〇図のとおり、同ビルの構造上、一階においてはプレイタウン専用出入口から、地階においては千日デパートの売場から通じているプレイタウン専用エレベーターホールから、二階ないし六階においては同デパートの各階の売場から、七階においてはプレイタウン店内のクローク裏側(南側)の通路からそれぞれ出入りすることができるようになつている。そして、地階のプレイタウン専用エレベーターホールと同デパート売場との間、二階ないし七階のB階段の各出入口、同デパート売場若しくはプレイタウンとB階段に至る通路との間にはそれぞれ鉄扉が設置されているところ、右各鉄扉のうち、地階、二階ないし六階の鉄扉は常時施錠され、七階の鉄扉のみプレイタウンの営業中開錠されていた。

また、同ビル内には、別紙第一ないし第一〇図のとおり八基のエレベーターが設置されているところ、A階段北側にある三基のうち西寄りの二基及び同ビル北西にある一基は地階から屋上まで、A階段北側にある三基のうち東寄りの一基及びA階段西側の一基は地階から七階まで、同ビル西側にある三基は地階から四階までそれぞれ通じている。そして、地階から七階まで通じている右二基のエレベーターはプレイタウン専用であつて、その乗降口は地階のプレイタウン専用エレベーターホールと七階のプレイタウン店内にのみ設けられ、一階ないし六階の同デパート売場とはコンクリートブロック壁で仕切られており、他方、地階から屋上まで通じている右三基のエレベーターは同デパート専用であつて、その乗降口は七階を除く右各階及び屋上に設けられ、七階とはコンクリートブロック壁で仕切られていた。

このほか、同ビル内には一階から六階までの各階を連絡する設備として、別紙第二ないし第七図のとおりエスカレーター八基が設置されていた。

5同ビルにおける消防用設備等の設置状況

千日デパートビルに本件火災当時設置されていた消防法令の定める消防用設備等のうち、消火栓、消火器、熱式感知器、火災報知器の各階の設置状況は左記のとおりであり、スプリンクラーは、一階及び地下一階のF階段のまわり並びに六階旧千日劇場の舞台、楽屋及び映写室に設置され、救助袋は、別紙第四ないし第一〇図のとおり、三階、五階、七階及び屋上に各一個所、四階及び六階に各二個所設置されていた。

消火栓 消火器 熱式感知器 火災報知器

地下 六個所 三八個 一八個所 三個所

一階

一階 五個所 二三個  一個所 四個所

二階 七個所 二三個 四個所

三階 七個所 二四個 五個所

四階 六個所 一八個 四個所

五階 三個所 一三個  三個所 二個所

六階 二個所 五個 一七個所 二個所

七階 二個所 一三個  八個所 一個所

屋上          五個所 一個所

また、同ビル一階外周には防火シャッターが、各階段の各階出入口(F階段の一階出入口を除く)には防火シャッターもしくは防火扉がそれぞれ設置され、エスカレーターについても、三階と四階とを結ぶ二基、四階と五階とを結ぶ一基、五階と六階とを結ぶ一基には防火シャッターが取り付けられているほか、地下一階及び一階ないし四階の各売場は、別紙第一ないし第五図のとおり、防火シャッター(以下売場内の防火シャッターのみを指す場合は防火区画シャッターという)、防火扉により、地下一階は二区画(防火シャッター七枚)、一階は三区画(同一九枚)、二階は三区画(同一九枚)、三階は四区画(同一五枚及び防火扉二個所)、四階は三区画(防火シャッター八枚及び防火扉三個所)の防火区画に分けられていたが、これら防火区画設備はすべて建築基準法及び同法施行令に適合しているものであつた。そして、同ビルにおいては、毎日午後九時の千日デパート閉店後直ちに、前記D出入口(従業員専用)を除く一階の外周シャッター並びにB階段を除く各階段の各階の出入口及び三階以上にある四基のエスカレーターの防火カバーシャッターが閉鎖されていたのであるが、F階段の二階横引シャッターは昭和四〇年ころ故障したまま放置され、それ以後閉鎖されたことはなく、前記各階の売場内にある防火区画シャッターも、一、二度試験的にその一部を閉鎖したことはあつたが、閉店時に閉鎖されることは一度もなかつた。

なお、同ビル内の換気ダクトの内部には要所要所に防火ダンパー(火災により温度が急激に上昇した場合に自動的に風道が閉鎖される装置)が設置されているが、右設備がなされた昭和三三年当時においては、法令上は換気ダクトの内部に防火ダンパーを設置するよう義務付けられてはいなかつた。

二千日デパート管理部について

1同管理部の組織

ドリーム観光は、昭和三九年以降は、千日デパートの管理を同デパート管理部に行わせていたものであるが、同管理部は、店長と称する同デパート担当取締役の指揮監督下にあり、その組織は、部長以下、総務、管理、営業の三課と保安係とから構成されていたところ、昭和四六年五月一七日に宮田聞五が同部の次長に就任してからは、部長が空席であつたため、同人が部長の職務を代行して、同部の業務を統轄し、各課及び係を監督指導していた。なお、保安係は、従来管理課に属していたところ、同年一〇月一日付で同部次長直轄に改められたものである。

2同管理部の業務内容及び同部次長の権限

千日デパート管理部の業務は、要するに、ショッピングセンターとしてテナントに売場の床部分を賃貸していることに関連する業務とドリーム観光直営の人形館及び均一スーパーの経営に関する業務とであるが、具体的には、総務課が、賃貸借等の契約、賃料及び共同管理費の徴収、同部の経理、庶務、人事等の業務を、管理課が、建物及び各種設備の保全、管理、各種什器備品の運用、管理、テナントに供与する包装紙、値札、制服等の購入、電気、汽罐、換気及び上下水道の各設備の保守、管理、関係官庁等との折衝等の業務を、営業課が、宣伝、広告、各種催し物の企画、実施、テナント及び顧客の苦情処理、店内受付及び案内、電話交換、店内放送、エレベーター及びエスカレーターの運転、管理等の業務を、保安係が、火災、盗難等の予防、同デパートの関係者ら出入者の点検、店内での不法行為者らへの対処、店内諸工事への立会、開閉店時の各階出入口のシャッター及び防火扉の開閉、閉店後の店内巡視、警察、消防等との渉外等の業務をそれぞれ担当していた。

同管理部が右業務を遂行するにあたり、修理や備品、消耗品の購入等で支出を要する場合、それが一万円未満のものについては次長に決裁権限が与えられていたが、それが一万円以上である場合や予算、決算に関する事項は店長が決裁することになつていた。

なお、本件火災当時の同管理部の人員は、宮田次長のほか、総務課が一〇名位、管理課が四〇名位、営業課が四〇名位、保安係が一四名の計一〇四名位であつた。

3千日デパート閉店後の同ビル内の管理状況

しかして、千日デパートは、営業時間が午前一〇時から午後九時までであり、毎週水曜日が定休日となつていたところ、テナントは、ドリーム観光との間の賃貸借契約の約定及び同デパート店内規定により、宿直することを禁止され、同管理部に届け出て残業をする場合のほかは、閉店後速やかに同デパートビルから退去するよう義務付けられており、営業時間外のテナントの売場設備及び商品の警備を含む同ビルの防犯防火に関する業務は、同管理部保安係において行つていた。すなわち、本件火災当時は、保安係員一四名のうち、日勤専従者二名を除く一二名を六名ずつ二班に分け、各班が二四時間交代で勤務につき、閉店時刻の午後九時になると、テナントから各売場ごとに火元の安全確認をした旨記載した火元点検カードを回収してこれを点検するとともに、前記D出入口を除くすべての一階出入口のシャッターを閉め、約二時間にわたつて、プレイタウン店内を除く同ビル全館につき、絞り出しと称する巡回を行い、残留者の有無の確認及び煙草の吸殼等火気の点検をしながら、B階段を除くすべての階段の各階出入口の防火シャッター及び防火扉並びにエスカレーターの防火カバーシャッターを閉め、その後も午後一一時三〇分及び午前五時三〇分の二回それぞれ約二時間にわたつて同ビル全館を、午前二時三〇分から約一時間にわたつて同ビルの二階以下を巡回していた。但し、四階については、ニチイが同階全部を賃借した際に、ドリーム観光との間で交した昭和四二年二月一六日付の覚書に基づき、ニチイについては午後一一時までの残業は千日デパート管理部への届出を不要とし、そのかわりに、同階においては、残業終了時にニチイの従業員において防火シャッターを降ろし、電源を切り、いわゆる絞り出しを行い、店員通路扉を施錠したうえ同デパート管理部保安係に引き継ぐことになつていた。その後、ニチイが三階を賃借した際には改めて右のような覚書の交換はなされなかつたものの、事実上三階も四階に準じる取り扱いがなされ、三、四階のC、E、F階段出入口の防火シャッター及び右両階を結ぶエスカレーターの防火カバーシャッターはニチイの従業員が閉めていた。

また、同ビル地下一階の電気室及び機械室においては、同デパート管理部の電気及び汽罐の係員計二名が宿直をしていた。

三プレイタウンについて

1プレイタウン店内の状況

プレイタウンは、前記のとおり千日デパートビル七階に開設されたキャバレーであり、その店内は別紙第八、第一〇図のとおりであつて、店の大部分はホールで占められ、ホールの南側にクローク、エレベーター等が、北側にボーイ室、楽団室、タレント室、調理場等が、北西側に事務所、衣裳室、ホステス更衣室(以下更衣室という)等がある。

ホールは、別紙第一〇図に示すとおり、F階段のシャッター、ステージ、3の角柱を結ぶ線の南側で、そのうち、おおよそ4、13の角柱、22、23の丸柱を結ぶ線よりも南側、23、26の丸柱を結ぶ線の東側の範囲が客席となつており、その広さは、東西が約三二メートル、南北が約一七メートルあり、右客席には、テーブルが一一四個、L字型、棒型の椅子が一四一個、仕切板が三七個置かれていた(現場見取図一二四図)。ステージの裏側にはホールからボーイ室、楽団室及びタレント室に至る通路があつて、右通路の入口に板戸が設けられ、ホールとの間を隔てている。ホールの窓は北東側に四個所、東側に二個所設けられているが、北東側の窓のうち一番南寄りの窓際には箱に格納した状態で救助袋(本体及びその付属装置)が取り付けられてあり、右箱の前面には「救助袋」と表示され、右窓の上方には救助袋の位置を示す表示灯が設置されていた。ホール南西隅にはリスト及びレジが設けられ、その南側には男女各便所の出入口となつている。ホール西端はブロック壁になつているが、この壁は、プレイタウンが昭和四七年四月一七日に千日デパートビル六階での営業を止め、その跡をボーリング場に改造する工事が始められたことから、当時旧店舗部分との境界に造られたものである。そして、右ブロック壁の東側にはこれに沿つて1.65メートルの間隔を置いてベニヤ板の障壁が設けられており、右障壁及びリスト・レジ室(以下レジという)と客席との間が、ホール出入口から調理場、事務所、更衣室等に向かう主たる通路になつている。また、右通路の南端に位置するホールの出入口は、別紙第一一図に示すようなアーチになつているところ、アーチの南突きあたりの所にクロークがあり、クロークの東隣りにはプレイタウン専用のエレベーター二基のうちの南側の一基の乗降口が、その東側にはA階段が、更に、A階段の北側には通路を隔てて右二基のエレベーターのうちの北側の一基の乗降口がそれぞれ設けられている。そして、アーチからクローク及び右各エレベーター乗降口前付近に至る間の通路の状況は別紙第一〇図のとおりで、ほぼL字型になつているところ、南北はアーチからクロークの出入口まで7.71メートル、東西は便所東側の壁から一番長い所で10.7メートル、通路幅はアーチ南側付近で2.6メートル、南側のエレベーター乗降口前付近で2.8メートル、A階段の北側付近で1.4メートルである。なお、クロークの奥行は2.1メートルであり、クローク南端の出入口鉄扉(幅八四センチメートル)からB階段出入口までの距離は2.09メートルである。また、事務所前通路は、事務所東端から衣裳室の東側の壁までの距離が八メートル、通路幅は1.23メートルないし1.8メートルであり、事務所出入口の向かい側の壁には、換気ダクトの開口部があるところ、右ダクトは、同ビル三階から七階まで貫通しており、その開口部は、七階のほか、三、四、六階にも設けられている。

2同店の営業形態

プレイタウンの営業時間は、平日が午後五時から午後一一時まで、土曜、日曜、祝日が午後四時から午後一一時までであつて、客は一五〇名位まで収容可能である。

同店の従業員数は、ホステスが一〇〇名位、その余の従業員がアルバイトやパートの者も含めて四〇名位であつた。

3同店の各階段及びエレベーターの利用状況

ところで、プレイタウン店内から利用可能な階段は、前記のとおりA、B、E、Fの四階段であるが、F階段の七階出入口は常時防火シャッターが閉鎖され、防火扉も施錠されており、A、Eの各階段も、平常時においてはこれを通つて同店関係者が千日デバート内に出入りすることを同デパート管理部において禁止していたことから、プレイタウンの営業時間中はその出入口の扉が施錠されていたため、現実には日頃同店関係者がいつでも自由に利用しうるのはB階段のみであつた。

もつとも、同店の客は、来店する場合は千日デパートビル一階のプレイタウン専用出入口からB階段を通つて、地下一階の同店専用エレベーターホールに行き、そこからエレベーターを利用して七階へ上がり、帰る場合も前記プレイタウン専用の各エレベーターを利用して降り、同店のホステスら従業員も、出退勤にあたつては通常客と同様右エレベーターを利用していたが、閉店時にエレベーターが混雑する場合等は、客を優先させて、従業員はB階段を通つて帰つており、同店もホステスらに対してはそのように指導していた。

第四  被告人らの経歴

一被告人中村

被告人中村は、昭和二六年三月大阪府立城東工業高等学校を卒業し、同年六月ドリーム観光に入社して大阪歌舞伎座の汽罐係や会計課に勤務した後、昭和三三年一二月千日デパート管理株式会社の設立と同時に同会社に出向し、千日デパートビルの管理に関する業務を担当するようになり、昭和三九年五月にドリーム観光内に千日デパート管理部が設置されてからは、同部に所属して引き続き同様の業務を担当し、昭和四二年二月一六日付で同部総務課長になり、その後営業課長を経て、昭和四四年四月一日付で同部管理課長になり、本件火災当時もその職にあつた。

また、同被告人は、右総務課長在任中の昭和四二年三月一日から昭和四三年一〇月ころまでの間及び右管理課長在任中の昭和四四年四月三〇日から本件火災当時までそれぞれ千日デパートビルの防火管理者に選任され、同ビルの防火管理に関する業務をも遂行すべき立場にあつた。

なお、本件火災当時の同被告人の身分職は主事二級である。

二被告人桑原

被告人桑原は、昭和一一年に東京外国語学校を卒業し、満州中央銀行に勤めた後、昭和二一年三月ドリーム観光に入社した。そして同会社が経営する劇場の支配人や経理部票券課長を経て、昭和三九年六月千土地観光に業務部次長として出向し、以後は同会社にあつて、昭和四一年六月取締役業務部次長に、昭和四二年二月取締役業務部長に、昭和四五年五月からは代表取締役業務部長になり、本件火災当時もその地位にあつた。

同被告人の本件火災当時の身分職は副参事一級である。

三被告人高木

被告人高木は、昭和一四年三月高等小学校を卒業し、製菓工等をした後、昭和二〇年一一月ドリーム観光に入社し、以後同会社のキャバレー営業部門で仕入係、経理事務係等をし、千土地観光の設立と同時に同会社に移り、同会社経営の大劇アルバイトサロン及びキャバレーニュー大劇の各支配人を経て、昭和四五年九月一日から本件火災当時までプレイタウンの支配人として勤務していた。

また、同被告人は、昭和四六年五月、二日間にわたつて防火管理者資格講習を受け、同月二九日付でプレイタウンの防火管理者に選任され、以後本件火災当時まで同店の防火管理に関する業務を遂行すべき立場にあつた。

なお、本件火災当時の同被告人の身分職は主事一級である。

第五  本件火災の概略

一千日デパートビル三階からの出火状況及び工事関係者、保安係員らの対応並びに火災の拡大状況

本件火災は、昭和四七年五月一三日午後一〇時三〇分ころ千日デパートビル三階東側のニチイ寝具売場(別紙第四図×印部分)から出火し、発生した。同売場での着火時刻は同日午後一〇時二五分ころと推定される。

当時同ビル三階では、ニチイから電気工事を請け負つた株式会社大村電機商会の設計監理課長河嶌慶次の監督下に、その下請業者である福山電工社こと福山勝及びその従業員大賀忠司、新谷正和、神崎尚、福山篤ら五名が電線用配管の取替工事を翌朝午前四時ころまでの予定で行つていたのであるが、このうち同階南側の婦人肌着売場と子供肌着売場との間の通路(同図柱番号57と58との間)にねじ切機やオイルベンダーを置いてパイプのねじ切や折り曲げ等の作業をしていた福山勝、大賀、新谷、神崎は、午後一〇時三二、三分ころ、右通路の東側、エレベーターの東南角付近(同図イ)に炎が上つていているのに気付き、出火を知つた。福山勝は、直ちに「火事や」と怒鳴り、大賀らとともにエスカレーターの方へ消火器を捜しに走り、河嶌は、同ビル一階にいる保安係員に連絡するため、「三階が火事や」と叫びながらD階段を駆け下りた。また、神崎は、午後一〇時三四分ころ、同階西出入口にある火災報知器(同図ロ)のスイッチを押した(右時刻は、一階保安室の火災報知装置副受信機によつて記録されている〔後記「火災概況」〕)。

当日の宿直勤務についていた千日デパート管理部の保安係員は、係長外山俊一以下菊池静雄、森定市、山本博次の四名であつたが、福山勝らが出火に気付いたころ同ビル一階保安室にいたのは、外山、菊池、森の三名で、山本は、同階西側の従業員出入口で受付勤務についていた。そして、菊池、森の両名は、三階の火災を知らせる河嶌の声がD階段の方から聞こえるや、直ちに保安室を出て同階段を駆け上り三階へ急行した。

三階では、出火場所付近一帯が午後一〇時三五分ころいわゆるフラッシュオーバーの状態に達し、菊池らが同階に到着したころには、同階のほぼ南北の幅一杯にエスカレーターの西端近くまで黒い煙が押し寄せてきており(菊池の検察宮に対する昭和四七年六月一二日付供述調書の抄本)、大賀や新谷が消火器を手にしてその使用方法が分らないまま右往左往していた。菊池は、この状態を見て、直ちにD階段を駆け降り、外山に本格的な火災である旨告げ、同人は、午後一〇時四〇分ころ、一一九番通報した。この間、森は、大賀らに消火器の使用方法を教えた後、三階南側機械室外側に設置されている消火栓(同図ハ)を用いて消火作業をすべく右設置場所へ向かつたが、煙のためその手前三、四メートルまでしか進むことができず、消火を諦めてD階段から一階へ逃げ、また、大賀ら他の福山電工社の者も身の危険を感じて同階段を通つて地上へ逃げ出し、午後一〇時四三分ころには三階から全員が逃げ出したが、このころには同階段は二階付近まで黒い煙が充満していた。

他方、一一九番通報を受けた消防局は、ポンプ車三九台、梯子車七台等を含む八五台の車両と消防隊員五九六名を出動させ、これらは同日午後一〇時四三分ころから相次いで現場に到着し、消火及び同ビル七階プレイタウンに残留している者の救出や路上に墜落死傷した者の収容作業にあたつた。しかし、同ビルでは、当時、売場内の防火区画シャッターを一枚も降ろしておらず、かつ、三階と四階とを結ぶエスカレーター二基のカバーシャッターが閉められていなかつたため、消防隊が消火作業を開始したころには、三階から出た火が、エスカレーターを通じて二、四階にも燃え拡がり、これらの階に置かれていた商品の大部分が衣料品、寝具等燃え易い物であつたため、翌一四日午前五時四三分ころ消防隊により本件火災が鎮圧されるまで燃え続け、更にその後もくすぶり続けて、同ビル二階ないし四階床面積合計約一万〇八九九平方メートルのうち、二階約三一九二平方メートル、三階約三二一八平方メートル、四階約二三五三平方メートル、合計約八七六三平方メートルを焼損し、同月一五日午後五時三〇分ころに至つてようやく鎮火した。

二プレイタウン店内への煙の流入経路及びその流入状況

前記のとおり、本件火災は千日デパートビルの二階ないし四階を焼損したのであるが、その際、売場にあつた衣料品等の商品や内装材等の燃焼により、一酸化炭素を含む多量の煙が発生し、これが右各階に充満したのみならず、プレイタウン専用エレベーター二基のうち南側のエレベーターの昇降路(以下南側エレベーターの昇降路という)、同ビル北側の換気ダクト(以下北側換気ダクトという)、E階段及びF階段を通つて上昇し、プレイタウン店内に流入した。煙が右経路を通つて同店内に流入したのは、南側エレベーターの昇降路等に以下に述べるような欠陥個所があり、また、階段出入口の防火シャッターの閉め忘れがあつたためである。

まず、南側エレベーターの昇降路は、前記のとおり、千日デパートビル南東部に位置し、地階から七階まで通じているのであるが、その乗降口は地階のプレイタウン専用エレベーター乗り場と七階とにあるのみで、その余の同デパート各階の売場等とはコンクリートブロック壁で区画された構造になつているところ、同昇降路の二階及び三階部分の北壁には欠陥のあつたことが本件火災後判明した。すなわち、同昇降路の右両階の北壁は、床と天井梁との間にコンクリートブロックを積み上げた構造になつているのであるが、三階の北壁がある場所は、床から天井梁までの高さが約3.18メートルあるにもかかわらず、コンクリートブロックが床上約2.39メートルの高さまでしか積み上げられていないため、右ブロック壁と天井梁との間には上下約七九センチメートル東西約1.88メートルの隙間が開いていた。もつとも、右ブロック壁の南側には天井から梁下約八八センチメートルまで厚さ約三センチメートルのモルタル壁が垂れ下がつてはいたが、右ブロック壁とモルタル壁とは約三三センチメートル離れていたため、右モルタル壁も右天井梁とブロック壁との間の隙間を塞ぐ役には立つていなかつた。右のような状態ではあつたが、ともかくも、本件火災発生までは、床上約2.3メートルの高さに張られていた石膏ボードとモルタル板とを貼り合わせた天井により右隙間は売場から遮蔽されていたところ、本件火災により右北壁付近の天井が落下したため、火災による煙が、天井の落下した部分から右北壁と天井梁との間の隙間を通つて同昇降路内に入り、上昇して、七階プレイタウン乗降口から同店内に流入した。また二階においても右三階の場合と同様の欠陥があり、コンクリートブロック壁と天井梁との間に上下約一メートル、東西約1.83メートルの隙間が開いており、右ブロック壁の南側には右天井梁から約1.15メートル下方までモルタル壁が垂れ下がつていたものの、右ブロック壁とは約一ないし五センチメートル(平均四センチメートル)離れていたところより、三階同様に付近の天井板が本件火災により落下し、かつ、右モルタル壁にも上下約七センチメートル、東西約一〇センチメートル及び上下約三ないし5.5センチメートル、東西約一〇センチメートルの穴が開いたため、火災による煙が、右隙間や穴を通つて同昇降路内に入り、上昇して、七階プレイタウン乗降口から同店内に流入した。

次に、北側換気ダクトであるが、同ダクトは、同ビルの三階から七階までほぼ垂直に貫通しており、七階では開口部がブレイタウン事務所出入口の向かい側に設けられているほか、三、四、六階にもそれぞれ開口部が設けられているところ、同ダクト内には、四階開口部の上、六階開口部の下、七階開口部の下の三個所に防火ダンパーが設置されていたにもかかわらず、本件火災当時、右三個所の防火ダンパーがいずれも作動しなかつたため、火災による煙が、同ダクト内を上昇して、七階開口部からプレイタウン店内に流入した。

また、E階段は、その三階出入口に設置された高さ2.48メートルの防火シャッターが本件火災当時六五センチメートル位しか降ろされておらず、F階段は、その二階部分に設置された横引防火シャッターが故障のため全く閉められていなかつたため、右両階段とも、その防火シャッターが開いていた個所から火災の煙が流入して、その屋上入口まで上昇充満した。そして、E階段とプレイタウンの更衣室との境の鉄扉及びF階段の同店ホールへの出入口にあるシャッターが、そこから避難しようとした同店従業員によつて開けられたため、右両階段に充満していた煙も同店内に流入した。もつとも、E階段から流入した煙は、右更衣室内に充満したにとどまり、ホールにまでは流入しなかつた模様である。

なお、右各経路からプレイタウン店内に煙が流入し始めた時刻は、後に説示するとおり北側換気ダクトからの煙が本件火災発生当日の午後一〇時三八、九分ころ、南側エレベーターの昇降路からの煙が同日午後一〇時四〇分ころ、E階段からの煙が同日午後一〇時四二、三分ころ、F階段からの煙が同日午後一〇時四八分ころと認められ、時間の経過とともに流入する煙の量は増大しているところ、午後一一時五分ころまでに南側エレベーターの昇降路、北側換気ダクト及びF階段から同店内に流入した煙の平均質量速度及び総質量は概略左記のとおりである。

南側エレベーターの昇降路からの煙

速度 三キログラム毎秒

二五立方メートル毎秒(摂氏二〇度)

総量 四五〇〇キログラム

三七〇〇立方メートル(摂氏二〇度)

北側換気ダクトからの煙

速度 二キログラム毎秒

1.7立方メートル毎秒(摂氏二〇度)

総量 三〇〇〇キログラム

二五〇〇立方メートル(摂氏二〇度)

F階段からの煙

速度 一一キログラム毎秒

九立方メートル毎秒(摂氏二〇度)

総量 一二〇〇〇キログラム

九七〇〇立方メートル(摂氏二〇度)

三工事関係者らが出火を覚知した時刻及び出火原因

ところで、検察官は、福山勝らが出火を発見したのは午後一〇時三七分ころであると主張しているのであるが、神崎尚の検察官に対する供述調書、第一一回公判調書中の証人河嶌慶次の供述部分及び司法警察員作成の検証調書(以下検証調書という)等関係証拠によれば、神崎が午後一〇時三四分ころ三階西出入口にある火災報知器のスイッチを押していることは明らかであり、かつ、同人が出火に気付いてから火災報知器のスイッチを押すまでの時間はごくわずかであつたと認められること、福山篤及び大賀忠司の検察官に対する昭和四七年五月三一日付各供述調書等関係証拠によれば、福山篤は、福山勝らが本件火災に気付く以前に、千日デパートビルを出て付近の駐車場まで歩いて車を取りに行つているのであるが、その際同人が右駐車場で受け取つた駐車カードには午後一〇時三五分と記載されており、本件火災後同ビル三階から右駐車場まで同人が徒歩で行くのに要する時間を検察官同行のうえ測つたところ、九分二五秒であつたことが明らかであるから、同人が本件火災当時同ビル三階から出たのは午後一〇時二五、六分ころということになること、同人が同ビル三階から出るころ、大賀は、二本目のパイプの最初の個所を折り曲げる作業を始めており、三個所目を折り曲げる作業にかかつたころ本件火災に気付いているのであるが、パイプの一個所を折り曲げるのに要する時間は、二、三分位であるから、パイプの位置をずらすのに要する時間等を考慮すると、同人が出火に気付いたのは、福山篤が三階を出てから六、七分後ということになることがそれぞれ認められること等を総合して、福山勝らが本件火災を発見した時刻を前記のとおり午後一〇時三二、三分ころと認定した。

また右出火発見時に同人らが見た炎の位置、その後の同人らの行動、保安係員が三階に駆け付けたときの同階の状況等は関係証拠により前記のとおり認められるところ、右認定事実に「千日デパートビル出火事件の燃焼実験復命書」と題する書面及び若松孝旺ほか二名作成の昭和四八年三月二六日付鑑定書等を総合して検討した結果、出火場所への着火時刻及びその付近がフラッシュオーバーの状態になつた時刻を前記のとおり認定した次第である。

なお、本件火災の原因であるが、同ビルの電気系統には漏電等出火の原因となるような故障はなかつたこと、右着火推定時刻ころ同ビル三階にいたのは、同階で配管の取替工事に従事していた福山電工社の五名とこれを監督していた河嶌のみであることが関係証拠により明らかであるところ、河嶌以外の者が当事右工事現場を離れて右出火場所付近に接近したことを窺うべき証拠は全く存しないのに対し、河嶌は、その足取りは証拠上確定し難いものの、当時右工事現場を一時離れて同階のいずこかを歩き回つており、かつ、同人は、本件火災前四〇分間位の間に煙草を二本吸つていることが認められることに照らせば、本件火災は、同人が同階東側を歩いている際に煙草を吸い、その煙草若しくはこれに点火する際用いたマッチの火が原因となつて発生した疑いが濃厚であるが、この点を証拠上確定することはできず、結局、出火原因は不明であるといわざるをえない。

第六  本件火災当時のプレイタウン店内の状況及び死傷者の発生

一1客、従業員らの在店状況

煙がプレイタウン内に流入し始めたころ、同店内には、客五七名、被告人高木以下従業員ら一二四名(うちホステス七八名、専属バンドマン、ダンサーら一一名)の合計一八一名がいた。客は、ホールで遊興中であり、ホステスは、更衣室にいた福田八代枝ら九名を除き、ホールで客の接待等にあたつており、ボーイは、片岡正二郎、本泉昭一がクローク前付近で客の案内のために待機していたほか、ホール等でその業務に従事していた。ステージでは、午後一〇時三〇分ころその日最後のショーを終え、引き続きバンドが演奏しており、控えのバンドマンらは楽団室に、ダンサーの角谷喜美子はタレント室にそれぞれ引き揚げていた。また、被告人高木は事務所に、その余の従業員らは調理場、レジ、クローク等各自の部署にいた。

2客、従業員らの煙覚知及び対応状況

ホールで最初に煙に気付いたのは、ステージにいたバンドマンらである。すなわち、ショー終了後の演奏が三曲目に入つて一分位経過した午後一〇時四〇分ころ、ドラマーの樋田正平は、ホール天井付近を白い煙がスーッと走るのを見て火事ではないかと思い、直ちに演奏中の他のバンドマンらにそのことを告げ、演奏を中止して楽団室へ行き、同室内にいた控えのバンドマンらに火事らしいということを伝えた。そこで、同室内にいたバンドリーダーの高平勇は、様子を見るためすぐホールへ出、ホールを通り抜けてアーチをくぐり、南側エレベーター付近まで行つた。

また、客の越部孝行及び北川恒治もいち早く異常に気付いた。すなわち、右両名は、客席で一諸に遊興中午後一〇時四〇分ころ焦げ臭い臭いがするのに気付き、越部は、直ぐレジへ行つて、女子従業員に異臭について尋ねたが、そのとき、付近の天井に白つぽい煙がかすみのように漂つているのを見て火事だと直感し、逃げるためエレベーターの方へ向かつた。北川は越部に少し遅れてレジに来るや、大声で「火事と違うか」等と叫び、ホステスに階段の場所を尋ね、その案内でレジの前からホール出入口のアーチの方へ行つた。

他方、クローク、エレベーター付近においては、午後一〇時四〇分ころ、ホステス長野加代子が下へ降りるため南側エレベーターに乗つた直後、右エレベーターの床と昇降路との隙間から真白な煙が立ち昇つてきた。同女は「火事や」と声をあげ、右煙に気付いたボーイの本泉昭一、同片岡正二郎らが右エレベーターの前へ様子を見に来た。同女は、右エレベーターから降りて、北側エレベーターの前へ行き、間もなくホステス杉坂洋子が客を案内して到着した右エレベーターに飛び乗り、ともども午後一〇時四三分ころには地階に着き、一階プレイタウン出入口から屋外へ脱出した。なお、長野が右エレベーターに乗るとき、クロークの方に目をやると、その方向には白い煙が立ち込めて、クロークや南側エレベーターは見ることができず、同女の乗つた北側エレベーターも、七階に到着したとき既にその内部に少し煙が漂つており、降下するにつれて真黒な煙が流入して充満し息苦しい状態であつた(なお、午後一〇時四三分ころには、既に五ないし七階の北及び北東の窓から、かすかながら白煙が洩れているのを、そのころ現場に到着した消防隊が現認している〔後記「火災概況」〕)。また、クローク内にいたクローク係宮脇末野は、午後一〇時四一分ころ、南側エレベーターのあたりから便所の方へ二筋位の白つぽい煙が流れて行くのを見て、エレベーターの故障の煙と思い、クローク西隣りの電気室に行き、電気係の吉田美男に煙が出ていると告げたところ、同人は、直ぐに同室から出てホールの方へ向かつて行つた。そのときは既に煙の出方がひどくなつており、同女は、煙を屋外に出そうと考え、同室の窓を開けたが、これとほぼ同時位に、急に多量のどす黒い煙がクロークの方から電気室の中へ流れ込んで来たのに驚き、いつたんホールの方へ向かつたが、煙の量が増えるので、生命の危険を感じ、アーチ付近まで行つただけで、クロークに引き返し、煙の中を手さぐりでクローク内を通り抜けて、B階段に通ずる通路に出、同階段を通つて、午後一〇時四五分ころには一階プレイタウン出入口から屋外に脱出し、前記のとおり既に脱出していた長野と会つた。

ところで、本泉昭一や片岡正二郎らが前記のとおり煙に気付いて南側エレベーターの前に来たころ、ボーイ長の新田秀治もホールから右エレベーターの前へ駆けつけ、同人らは、当初、エレベーターの故障が原因で煙が出ているのではないかと考え、右エレベーターを止めて点検しようとした。このころ、前記のとおり高平勇は右エレベーター前付近まで来たが、エレベーターの床と昇降路との隙間から煙が出ているのを見て、エレベーターの下が火事だと思つたものの、以前地階のプレイタウン専用エレベーター乗降口付近で小火があり、それが直ぐ消えたことを思い出して、それほど心配することもないと考え、直ちにホールへ引き返し、ステージにいたバンドマンらに楽団室へ引き揚げ同室で待機するよう命じた。越部は、高平が右エレベーター前付近から立ち去つた直後の午後一〇時四二分ころ、右エレベーターの直ぐ前まで来たが、そのとき、エレベーターの昇降路から多量の煙が越部の方に覆い被さるように噴き出してきたため、直ちにレジ前に戻つた。また、新田や本泉も、右煙が右エレベーター前からクローク前付近一帯に充満してきたため、レジ付近まで下がつた。このころには、客席にいた客やホステスも異常に気付き、レジ付近に集まり始めていた。

3換気ダクトの開口部からの煙の流入と、これに対する被告人高木その他の従業員の対応及びクローク付近の状況

プレイタウン店内南側に煙が流入し始めたころの状況は前記のとおりであるが、同店内北側においても、午後一〇時四〇分ころ、調理場にいた従業員桑原義美らが、事務所出入口前の換気ダクトの開口部から流出している煙に気付き、煙の出てくる方に向けて、消火器で消火液をかけたり、バケツリレーで水をかけるなどした。事務所にいた被告人高木は、調理場の従業員らが煙を見て騒ぐ声や物音を聞き、様子を見るため事務所出入口のドアを開けたところ、煙が勢いよく事務所内に流れ込んでくるとともに、調理場の従業員二、三名が事務所前の通路を更衣室の方へ行くのを見て、いつたん同室の方へ向かいかけたが、右通路に煙が充満しており、前を行つていた二、三名が「あかんわ」「いかれへん」などと言いながら引き返してきたため同被告人もすぐに引き返して、換気ダクト開口部の東側まで行つた。そのとき、同被告人は、同ダクト開口部から黒い煙が噴き出しているのを見て、階下が火事だと判断し、ホール内の様子を見るため調理場とホールとの間にあるカーテンを通り抜けてホールへ出たが、その時点では、ホール内に薄く煙が立ちこめ、客やホステスらがレジ付近に集まり始めていたものの、それほど目立つた騒ぎにはなつていなかつた。次いで、同被告人は、アーチとクロークとの中間付近まで行き、直ぐレジ付近まで戻ると、本泉らに対し、「非常口を開け」と言つてA階段の出入口の扉を開けるように命じた。そこで、本泉が右扉の鍵が保管されている場所と思いこんでいたクロークに行こうとしたが、増量、かつ濃密化してきていた煙にはばまれてクローク内に入ることができず、それでもなお二、三度クロークに行こうと試みたが、結局、息苦しいうえ煙でクローク内が見えないため、これを断念し、新田とともにアーチの南側で両手を拡げて、その辺りに集まっていた客やホステスらがアーチから出るのを押し止め、煙が一杯だからホールの方へ下がるよう指示した。

ところで、本泉がクロークへ行こうと試みていたころ、同被告人は、レジ付近で「逃げてくれ、逃げてくれ」と言いながらアーチの方に向かつて右手を振つていたのであるが、これを見た片岡は、周囲の者を連れてB階段から逃げようと考え、「クロークの裏へ行け」と言いながら、周囲の者と一緒にクロークの方へ向かつたところ、前記のとおり本泉らが客やホステスらを押し止めていたため、アーチから先に進むことができなかつた。また、越部と北川は、レジ付近で同被告人が南の方を指差してそちらから逃げるように言つているのを見て、その肩の辺りを掴み、「人に言うばかりでなく、自分で案内して行かんか。先に立つて連れて行かんか」などと言つて、同被告人を先に押しやりながらアーチの方へ向かつたが、レジから一、二歩行つた所で、充満してきた煙と付近に集まつていた人とにさえぎられて同被告人の姿を見失つてしまつた。

他方、事務所出入口前の換気ダクト開口部付近では煙を発見した直後から、調理場の従業員や急を知つて駆け付けたボーイらが、煙の噴き出してくる方向に向けて消火器の消火液や水をかけたりして消火を試みていたが、煙の勢いが一向に衰えず、益々激しくなつてきたため、間もなく消火作業を諦めてホールへ逃げ出し、パートやアルバイトのボーイのほとんどはボーイ室に引き揚げた。

4煙の充満のため店内が混乱状態に陥つた状況

片岡がB階段から逃げ出そうとして、アーチの所で止められたのが午後一〇時四四分ころであるが、このころには、ホールにいた者のほとんどがアーチからレジ付近に詰め掛けており、南側エレベーターの昇降路から噴き出す黒煙がアーチから南側に充満して、アーチからクローク、エレベーターに至る通路は何も見えない状態になつており、アーチを通つてホールに流入する煙も次第にその量を増し、レジ付近は、アーチの方から引き返そうとする者とアーチの方へ行こうとする者とで混乱し始めていた。片岡は、アーチの所で止められた際、もはやB階段へは行けないものと判断し、とつさにE階段から避難しようと考え、「更衣室へ行け」と言いながら事務所前通路に向かつた。また、被告人高木は、F階段から客や従業員を避難させようと考え、リスト内の従業員に対し、皆に落ち着くよう放送することを指示して同階段の方へ行つた。そのときレジ付近に詰めかけていた客や従業員は、ある者は片岡のあとを追い、ある者は同被告人のあとを追つたが、一部の者は、外気を吸うためにホールの窓際へ行き、窓ガラスを割り始めた。

しかし、E階段へ向かつた一団は、換気ダクト開口部から噴き出す煙とその熱気のため、調理場南東角付近から先へ進むことができず、ホールへ引き返したり、あるいはボーリング場工事現場との境にあるブロック壁を打ち破つて逃げようとしたが、壁を壊すことはできなかつた。また、F階段では、後記認定のとおり同被告人らが、同階段西出入口の施錠してある鉄扉を開けようとして、これに体当りしたり、その取つ手をテーブルの脚で殴るなどしたものの、開けることができなかつたため、同階段南出入口に回り、そのシャッターを開けようとしたが、それが電動式シャッターであることを知らなかつたため、開けることができず、そこへ本泉が来て、午後一〇時四八分ころ右シャッターのスイッチを入れてこれを上昇させ、同被告人や付近に集まつていた客従業員らは、先を争うようにして同階段内に入つたが、そこにも黒い煙が充満していて、これが噴き上げてきたため、直ちにホールへ引き返した。

右のように、F階段のシャッターが開くや、そこからも多量の黒い煙が噴き出して、ホールには煙が急速に充満し、かつ、後記認定のとおり午後一〇時四九分ころにはプレイタウン店内の照明が停電により消えたためホールは避難路も分らぬまま右往左往する客や従業員らで混乱の極に達した。その前後、客や従業員の一部は、ホール東側及び北東側に窓があることを思い出し、あるいはそのことに気付いたため、これら窓際に急ぎ窓を開け、ガラスを割るなどして窓から身を乗り出し、外部に噴き出る煙を避けて外気を吸いながら地上の消防隊に向かつて懸命に救助を求めた。また、調理場に入り込んだ客や従業員らタレント室等ステージ裏側の部屋まで行くことのできた従業員ら、及び先に楽団室やボーイ室に引き揚げていたバンドマンやボーイらも、同様に窓から身を乗り出して地上に救助を求めたが、その余の客や従業員らは、右のいずれの窓際に行くこともできず、ホール客席西側通路、ベニヤ板障壁とブロック壁との間の通路、便所、調理場等で煙に巻かれ、一酸化炭素中毒等により次次と倒れていつた。

このころ、ホステス飯田和江は、ホール内を右往左往したのち便所に向かい、男便所に入つたり、女便所に入つたりしているうち停電し、その後、手さぐりで便所から出て、腰をかがめ、目をつむり、ハンカチで口を覆つて息を殺し、便所東側の壁伝いに無意識に進むうちに、クロークに至り、午後一〇時五〇分ないし五一分ころクロークを通り抜け、B階段を通つて一階プレイタウン出入口から地上へ脱出することに成功し九死に一生を得ることができた。

なお、被告人高木は、F階段からホールに引き返した後ホール窓際へ行き、ボーイ室の方に人が入って行くのを見て同室へ行き、次いで楽団室、タレント室へと各室を回つてその様子を見た後、ホールへ引き返したが、なす術もなくタレント室に戻り、同室の窓から消防隊のはしご車で救出された。

5救助袋の投下及び死傷者の発生状況

ホール窓際では、電気主任の塚本一馬が、救助袋の設置されていた観音開きの窓を、これに巻きつけてあつた針金をはずして開き、次いで、午後一〇時四六分ころからリスト主任金子邦雄、電気係吉田美男、ボーイ本泉昭一、同中屋博及び客の上杉益美らの手によつて右窓から救助袋の投下が開始されたが、本来救助袋の先端部にロープで連結されて投下目標地点への誘導の役割を果たすべきはずであつた砂袋がはずれていたため、救助袋が千日デパートビル二階のネオンサインに引つかかり、これを消防隊員が午後一〇時四七、八分ころ地上に降ろしたうえ、午後一〇時四九分ころ、消防隊員と附近にいた二〇人位の市民とが、協力して救助袋の出口を把持して引張り、地上への降下脱出を可能な状態にした。ところで、この救助袋は、別紙第一二図、第一三図のとおり入口の下枠が窓際のコンクリート壁に固定され、上枠はその左右を長さ七八センチメートルの支持棒二本によつて支えられており、かつ、右各支持棒はその下端部分が下枠の左右に連結され、その連結部分を中心にして上下に回転する構造になつており、普段は上枠を下に倒して格納しておき、使用する場合は前記誘導砂袋を投下して、救助袋本体を降下させたうえ、右上枠を起こして入口を開き、そこから救助袋の中に人が入つて滑り降りる仕組のものであつたが、後に説示するように、当時救助袋の周辺にいたプレイタウンの従業員らは誰もその正しい使用方法を知らなかつたため、その入口の上枠を起こしうる者がなく、救助袋は、折角地上でその出口を把持されながら、入口を閉じたまま帯状に垂れ下がつたのみで、正常な方法による使用ができない状態であつた。

そこで、救助袋周辺の窓際にたどり着いた客や従業員らも、救助袋の内部を滑り降して避難することができないため、ある者は救助袋の外側にしがみついてこれを滑り降り、ある者は窓から身を乗り出して消防隊のはしご車による救助を待つなどしたのであるが、救助袋の外側を滑り降りた者の多くは、滑り降りる際の摩擦熱に耐えることができなかつたり、途中で力が尽きたりなどして地上に転落し、負傷しながらも幸い地上に降りることができたのは、救助袋の下方に張られた救助幕(サルベージシート)の上に落ちた三名を含む八名のみであつた。また、窓際で消防隊の救助を待つていた者の中にも、これを待ち切れずに飛び降り、あるいは窓から転落した者があるが、飛び落り若しくは転落しながらも一命を取り留めたのは、千日前通りのアーケードの上に飛び降りた者一名及び同じくアーケードの上に転落した者一名の計二名のみである。

6更衣室内への煙の流入及び同室内にいたホステスらの対応

なお、プレイタウン店内に煙が流入し始めたころ、更衣室には福田八代枝らホステス九名と衣裳係の松本ヨシノ、同店保安係の井内初夫とがいたが、午後一〇時四〇分ころ、福田は、調理場の従業員らが事務所出入口前の換気ダクト開口部付近で消火作業をしている声を聞き付け、更衣室の出入口から出たところ、事務所前の通路から黒い煙が迫つてきたので、調理場が火事だと思い、E階段から避難しようと考え、松本に言つて事務所から同階段出入口の扉の鍵を持つてきてもらい午後一〇時四二、三分ころ同階段出入口の扉の錠をはずしてこれを開けた。しかし、同階段内には既に黒い煙が充満しており、これが更衣室に噴き出してきたため、同室内には一瞬のうちに煙が充満し、ホステスらは、右往左往した末、三個所の窓のうちロッカーで塞れていなかつた一個所の窓際へ行つて窓を開け、右福田ら数名が身を乗り出すなどして、外気を吸いながら地上に向つて救いを求め、右松本と井内は宿直室へ逃げ込んだ。

7消防隊のはしご車等による救出活動及び本件火災による店内外における客、従業員らの死傷の状況

消防隊は、現場到着後間もなくプレイタウン店内に多数の人が取残されていることに気付き、はしご車五台を使用して同店の北側、北東側、東側の各窓から計五〇名を地上に降ろし、また、前記のとおり救助袋の外側を滑り降りる途中で転落する者らのうち計三名を救助幕(サルベージシート)で受け止めるなどして合計五三名を救出した。また、このほかに、救助袋の外側にしがみついて地上に降りたり、B階段等を使用して同店外に避難し、あるいは飛び降りるなどして一〇名が同店から自力で脱出した。

しかし、同店内においては、別紙第一〇図のとおり二七名が、はしご車のはしごが着いた窓際若しくはその直ぐ近くにいながら、救出が間に合わずに死亡し、六九名が、その余の各所において死亡した。また、一三名が救助袋の外側を滑り降りる途中の転落により、九名がホール窓際からの飛び降り等により死亡した。右死亡した計一一八名の死亡日時、場所及び死因は別表一のとおりであつて、店内における死亡者は、三名が胸部もしくは腹部の圧迫により窒息死したほかは、すべて煙に巻かれて一酸化炭素中毒により死亡したものである。

また、店外に避難した六三名のうち四二名は、在店中煙を吸引するなどし、また、救助袋の外側を滑り降りる際の摩擦もしくは転落等により別表二のとおりの傷害(但し、番号2、7の両名については後記のとおり)を負つた。なお、同表の2の江村つや子及び7の福田八代枝の各受傷程度は、本件公訴事実によれば、いずれも予後不明というのであるが、その受傷の内容及び経過年月に加え、江村が千土地観光と交換した示談書によれば、同女は、その負傷につき、昭和五一年四月二三日に同会社と示談し、今後は右負傷につき異議等を一切述べない旨約束していることからしても、右示談のころには、後遺症の有無は別として、その症状は固定していたものと推認できないことはないから、同女の加療期間は約三年一一か月であると認めるのが相当であり、福田については、同女が千土地観光と交換した示談書によれば、その加療期間が約二年三か月であることが認められる。

二1検察官の主張する個個の出来事の発生時刻及び被告人高木の行動

当裁判所が認定した本件火災当時のプレイタウン店内の状況及び被告人高木の行動は前記のとおりであるところ、検察官の主張は、その大筋においては右認定とそれほど変わりはないのであるが、同店内に煙が充満していった状況、個個の出来事の発生時刻等については右認定と異なるものである。すなわち、検察官の主張によれば、F階段出入口のシャッターが開いたのは午後一〇時五〇分ころであり、この間、煙は南側エレベーターの昇降路及び換気ダクト開口部から同店内に徐徐に侵入し、本泉、新田らが右エレベーターの点検をしているうちに、午後一〇時四五、六分ころ、煙が次第にエレベーター及びクローク前通路に立ち込め、その一部はホールへ天井伝いに侵入し始めたことからそれまで平穏に遊興していた客やホステスも、ようやく異常に気付き、エレベーターに至る通路の方に移動し、右通路及びその周辺に集まつた数十人の客や従業員らは、エレベーターを利用し、あるいは一部の者はB階段を通つて避難しようとしたところ、本泉らが午後一〇時四八分ころ、エレベーターの使用不能を理由に、これら集団をホール側に押し戻し、このため、客や従業員らは、次第に煙が充満し呼吸が困難になつてきたホールの中を、救いを求めて右往左往しているうち、F階段出入口のシャッターが開いたというのである。また、被告人高木の行動についても、同被告人が火災の発生を知り、かつ、六階以下のいずれかの階で出火したことを認識するまでの時刻、状況及び同被告人がF階段から客らを避難させようと考えてから後の行動についてはほぼ前記認定と同じであるが、この間の同被告人の行動は以下のとおりであるというのである。すなわち、六階以下のいずれかの階で火災が発生したことを認識した同被告人は、ホールの状態を懸念してF階段南出入口付近に行つたが、未だホールにはさほど煙が侵入しておらず、客やホステスらは平穏に振舞つていたので、更にホールを通つてクロークの前まで行き、エレベーターの様子を見たところ、客やホステスら七、八人が平穏にエレベーターの来るのを待つていたことから、この様子なら混乱等なく平常どおり客らを退店させることができると判断し、階下の火災に関する情報を得ようとするとか、多量の煙が侵入してきた場合に備えて、従業員に対し客らの避難誘導を適切に行うよう指揮するなどの対策を何も講じないまま静観するうち、その付近が徐徐に暗くなつて行くように見えたことから、付近にいた従業員に電気室から懐中電灯を取つてくるよう指示したが、右従業員は、電気室へ行つて戻つてくると懐中電灯を見付けることができなかつた旨報告した。その後、ホールにいた客らがエレベーターの方に多数押し寄せ、一方では、エレベーター付近にいた客らが本泉から押し戻される状態でホールの方へ後退したため、アーチ付近が一時混乱したのであるが、同被告人は、煙の侵入が激しくなり、右のような混乱も発生したことから、急いで客らを避難させる必要があると考え、思いつくまま、アーチ南側の通路が東に曲がる角付近で傍にいた従業員に対し、A階段出入口の鍵を取つてきて、同出入口の扉を開けるよう指示し、本泉と新田とがクロークに向かつたが、同出入口の鍵はクロークにはなく事務所に保管されていたため、これを見付けることはできなかつた。そこで、同被告人は、F階段を使つて客らを避難させようと考え、同階段の方へ向かつたというのである。

2当裁判所が本件火災当時の状況を認定するにつき、その基礎とした主たる証拠資料

ところで、本件火災当時の同店内の状況についてはプレイタウンから避難した客や従業員らのうち被告人高木ら五四名が捜査段階若しくは公判廷において供述しており、消防隊が目撃した事実及びその活動状況については、「千日デパート火災概況第2報」(抄本)及び「千日デパート火災概況(第2報)の一部訂正について(報告)」と各題する書面(以下この二通を合わせて「火災概況」という)並びに消防隊員二名の公判廷供述があり、これらと検証調書等関係証拠を総合して認定するわけであるが、同店内にいた者の供述は同店内での出来事の大筋についてはほぼ一致しているものの、その発生時刻や時間の経過等については区区であり、曖昧な点も多いところ、消防隊員の活動及びその目撃した事実につき「火災概況」に記載されている時刻は、右書類の作成者、作成目的及び記載内容に照らし正確であると思料されるから、当裁判所は、「火災概況」の記載及び当時同店内にいた者のうち時刻等について合理的な根拠を挙げて状況説明をしている者の供述を基礎にして、本件火災当時の状況を認定した。以下、当裁判所の認定と検察官の主張とが相違する点を中心に、前記第六の一の1ないし7のとおり認定した理由を説明する。

3当裁判所が個個の出来事の発生時刻及び煙の流入状況を認定した理由

まず、プレイタウン店内に最初に煙が流入してきたのは、北側換気ダクト開口部からであり、これにわずかに遅れて南側エレベーターの昇降路から煙が流入してきたことは関係証拠から明らかである。すなわち、第二六回公判調書中の証人長野加代子の供述部分によれば、同女は、いつも腕時計をテレビ等の時報に合わせてから出勤しており、当日も同女が右エレベーターに乗り腕時計を見て午後一〇時四〇分であることを確認した直後に、右エレベーターの昇降路から煙が出始めたことが認められるから、同所から同店内に煙が流入し始めたのは午後一〇時四〇分ころと認められる。一方、竹中たか子の検察官に対する供述調書の抄本によれば、同女が調理場にいて、同日午後一〇時ころ、一分進めて合わせていた目ざまし時計が午後一〇時四〇分であるのを確認した直後ころ、「何や、この煙は」などというような叫び声が聞こえてきたので、調理場の西側通路に出てみると、事務所前や更衣室の方が煙で一杯であつたことが認められ、その他関係証拠を総合すると、右換気ダクト開口部から煙が同店内に流入し始めた時刻は、午後一〇時三八、九分ころであると認めるのが相当である。

次に、F階段のシャッターが開いた時刻及びプレイタウン店内の照明が停電により消えた時刻を考えてみるに、「火災概況」等関係証拠によれば、金子邦雄らが救助袋を窓から投下し始めたのが午後一〇時四六分ころであることが認められるところ、第三三回公判調書中の証人本泉昭一の供述部分によれば、同人は右救助袋を投下した後、すぐ一度ボーイ室へ行き、次いで、F階段出入口に行つて、同階段の電動式シャッターのスイッチを押してこれを開け、それと同時に同階段から煙がホール内に流入してきたことが認められる。したがつて、右シャッターが開いた時点では停電していなかつたことが明らかである。

また、第二七回公判調書中の証人飯田和江、第四四回公判調書中の証人中西正博の各供述部分及び「火災概況」によれば、南消防署立葉出張所のポンプ車が午後一〇時五〇分ころ千日デパートヒルの東方一五〇メートル位の位置にある消火栓のそばに駐車し、同車の乗務員中西正博らが、直ちにホースを引つぱつて同ビルに走り、プレイタウン一階出入口からB階段を駆け上る途中、三階で上から降りてきた飯田和江と出会つたことが認められるところ、右中西ら消防隊員が、右ポンプ車の駐車位置から同女と出会つた場所に至るまでの推定所定時間は一分ないし二分までと認められる。そして、同女がクロークを通り抜けた地点からB階段を通つて同階段の三階に至るまでの推定所要時間もほぼ右と同じ位と認められるので、同女がクロークを通り抜けてB階段に向かつた時刻は、午後一〇時五〇分ないし一〇時五一分までの間と認められる。また、同女が便所を出てからクロークを通り抜けるに至るまでに要した時間は、同女の前記公判調書中の供述部分によれば、便所から出た当初からB階段を目ざしたわけではなく、目をつぶり、手さぐりで壁を伝つて無意識に進むうちにクロークを通り抜けたことが認められることに照らすと、少なくとも一分位は要したものと認められる。そうだとすると、同女が便所から出て、クロークの方に向かつたのは、午後一〇時四九分ないし一〇時五〇分までの間と認められる。そして、同女の前記公判調書中の供述部分によれば、同女が便所から出て、クロークの方に向かう直前に停電したことが認められる。

更に、吉田美男の検察官に対する供述調書によると、同人が救助袋を投下するのを手伝つてから、引き続き窓ガラスを三つ位割り、タレント室に入るころまでに停電したことが認められるほか、楽団室にいた樋田正平、永野弘、滝川光子らが、一様に同室に煙が急に増えてきたころ照明が消えた旨捜査段階で供述しているところ、右煙の急増は、F階段からの煙の流入によるものと考えられるので、F階段が開いて間なしに停電したものと認められる。

以上の事実を総合すると、同店内の照明が停電により消えたのは午後一〇時四九分ころ、また、F階段のシャッターが開いたのは午後一〇時四八分ころであると認めるのが相当である。

そして、右のようにF階段のシャッターが開いてからは、同店内、特にホール内には煙が一段と増量し、急速に充満したことは関係証拠から明白であるところ、それまでの間の状況についても、検察官は、煙が同店内に徐徐に流入したと主張するのである。

たしかに、宮脇末野の検察官に対する供述調書の抄本及び第三一回公判調書中の証人宮脇末野の供述部分によれば、同女が、その日、電話の時報に合わせておいた時計の針が、午後一〇時四一分を指していた時点でのエレベーターの昇降路からの煙の流入の状況は、クロークの前を白つぽい煙が二筋位流れて行くのが見えたという程度のものであつたことが認められるのであり、また、長野加代子、本泉昭一の前記各公判調書中の供述部分によつても、同所からの煙の流入が最初から多量であつたものでないことは明らかである。

しかし、北側換気ダクト開口部からの同店内への煙の流入状況は、右エレベーターの昇降路からの場合と同様には考えられない。すなわち、三階出火場所付近は、午後一〇時三五分ころにはフラッシュオーバーの状態に達していたものと認められること、右換気ダクトの属する同ビル東北系統換気ダクトの配管状況は、三階から七階までほぼ垂直になつており、かつ、四、六、七階の換気ダクト内に装着されていた各防火ダンパーがいずれも作動しなかつた(大阪府警察科学捜査研究所技術吏員柴田想一ほか一名作成の昭和四七年九月九日付鑑定書)ことから、煙が三階の換気ダクトの開口部から一気に流入上昇して、七階の換気ダクトの開口部から噴出したと認められること、調理場の従業員や煙に気付いた被告人高木が更衣室の方へ向かつたときには、既に事務所前から更衣室に至る通路には更衣室に近寄れないほど煙が充満していたこと等に照らすと、右換気ダクト開口部から流入した煙は、当初から多量で、急速に事務所前通路や調理場及びホール西側のベニヤ板障壁及びカーテンで囲われた部分に充満していつたものと認められる。

一方、エレベーターの昇降路の場合は、その三階北壁にあつた隙間が、本件火災による三階売場の天井焼燬に至るまでは天井によつて売場から遮蔽されていたのが、本件火災により当初は天井がわずかに落下し、煙の天井裏への流入量もそれほど多くなかつたところ、間もなく一挙に大きく天井が落下したため、一度に多量の煙がエレベーターの昇降路に流入して上昇し、一気にプレイタウン店内に流入するに至り、エレベーター、クローク前からアーチに至る通路一帯に急速に煙が充満していつたと推認されるのである。このことは、前記のとおり宮脇末野が二筋位の煙の流れを見てから寸刻後電気室の窓を開けたとほぼ同時位に急に多量のどす黒い煙がクロークの方から電気室の中に流れ込んできたこと、長野加代子の場合も、北側専用エレベーターに乗りかえるまでのほんのわずかの間に七階エレベーター前付近は急速に煙が増量したことが明らかであること、第二八回公判調書中の証人越部孝行の供述部分によれば、同人がホール内でいち速く異臭に気付いてエレベーターの前まで行つたとき、エレベーターの昇降路から多量の煙が同人の方に覆い被さるように噴き出してきたことが認められること、北川恒治の検察官に対する供述調書の抄本によれば、同人が越部にわずかに遅れてアーチから南へ出たところ、既に前方は灰色の煙が立ち込めて見えなくなつていたこと、前記本泉昭一の公判調書中の供述部分によつても煙の量が急激に多くなつたことが認められることなどからしても十分肯認しうるのである。

したがつて、右両経路からのプレイタウン店内への煙の流入状況は、決して検察官が主張するようなものではなかつたことが明らかである。

ところで、越部がエレベーター前に行つて右のような体験をした時刻を前記のとおり午後一〇時四二分ころと認定した理由は、まず、被告人高木の検察官(昭和四八年六月一九日付〔一七枚綴のもの〕)及び司法警察員(同年五月二八日付)に対する各供述調書並びに片岡正二郎の検察官に対する供述調書の抄本等関係証拠によれば、F階段のシャッターが開く前、同被告人ほか一名位が同階段西出入口の鉄扉を開けようとして、これに体当りをしたり、テーブルの脚で右扉の取つ手を叩くなどして、これを破壊しようとしていたことが認められるところ、同被告人が右のような所作に及んでいた間に少なくとも二、三分は経過していることが推認できること、F階段のシャッターが開いたのが午後一〇時四八分ころであること等から考えると、同被告人が同階段の西出入口に至つたのは午後一〇時四五分ころと認められ、右事実に鑑みると、レジ付近に詰めかけていた多数の客や従業員らが、E階段を目ざして調理場南東部に向かつたり、あるいはホール窓際に向かつて散つて行つたのは午後一〇時四四、五分ころであつたと認められること、越部がエレベーターの直ぐ前に行つたのがそれ以前のことであることは関係証拠により明らかであること、宮脇が煙を発見後、生命の危険を感じクロークからB階段を通つて、午後一〇時四五分ころには一階プレイタウン出入口から屋外へ脱出していたことは前記のとおりであるところ、クロークから屋外に脱出するのには、早足で階段を駆け降りたとしても、少なくとも二分位は要したであろうと推認されるので、同女がクロークから脱出を開始したのは午後一〇時四三分ころであると認めるのが相当であること、前記越部孝行の公判調書中の供述部分及び北川恒治の検察官に対する供述調書の抄本によれば、同人らは客席にいて異臭がするのに気付き、レジ付近の天井に少し煙が漂つてはいるが、まだその付近の者が火災に気付いていないころ、レジに行つてその従業員に火事ではないかと尋ね、直ちにエレベーターに向かつていることが認められるから、越部らがエレベーターに向かつたのは、エレベーターの昇降路から煙が流入し始めてから間もないころであると思料されること等を総合考慮すると、越部がエレベーターの直ぐ前まで来たのは午後一〇時四二分ころであると認めるのが相当である。

しかして、以上の事実及び関係証拠によれば、本泉がクロークへA階段出入口の鍵を取りに行こうと試みたり、同人と新田とがアーチ付近で客らを押し止めていたのは、右昇降路から多量の煙が急速に出始めた後の午後一〇時四三分ころから午後一〇時四四、五分ころまでの間の出来事であると認められる。

4被告人高木がホールに出てきてからF階段へ向かうまでの行動

ところで、被告人高木が煙に気付いて事務所の方からホールに出るまでの行動及びリストの従業員に放送を指示してから午後一〇時四五分ころF階段出入口付近に来て以後の行動は前記認定のとおりで、この点は関係証拠から明らかであるから、以下においては、同被告人がホールに出てきてからF階段に向かうまでの間の行動について検討する。

まず、この間の行動についての同被告人の供述をみるに、同被告人は、検察官(昭和四八年六月一九日付供述調書〔一七枚綴のもの〕)及び司法警察員(同年五月二八日付供述調書)に対しては、検察官の主張にそうような供述をしているのであるが、公判廷(八一、八二、八四、八六回公判)においては、事務所の方からホールのF階段前付近に出てみると、相当煙があつて、普段はクローク辺りまで見通せるのに、そのときはレジ付近までがうつすらと見える程度で、人の顔は見分けができない状態だつた、客やホステスは続続とレジの方へ集まつていたが、まだそんなに騒いではいなかつた、レジ付近にいた二、三〇人の人を押し分けてアーチを出て、アーチとその南側通路が東に曲がつている角との中間付近まで行つたとき、エレベーターの方から引き返してくる人達に押し戻された、その付近はそばにいる人と体を接するような状態だつたが、そばにいる人の顔もわからないほど真暗で、エレベーターの方からも煙が出ていると思つたし、「あかん」というような声も聞いたので、エレベーターの方へ避難することはできないと判断し、人の流れに押されるままレジの前まで引き返し、ホールから出ようとする人とホールへ押し返される人とで混雑しているのを鎮めるため、リストへ行き、リスト主任の金子邦雄に皆を落ち着かせるような放送を指示して、もうF階段から避難するしかないと思い、直ぐF階段の方へ行つた、リストに引き返すまでの間に、近くにいたボーイに非常口を開けろと叫んだかもしれないが、記憶がはつきりしない、A階段出入口の扉を開けろとは言つてないと思う、ボーイからA階段出入口の鍵がないと言われたことは覚えていない、鍵のことを聞いたのは、F階段出入口の鉄扉を開けようとして、その鍵を持つてくるように言つたときだと思う、また、アーチ付近で客にネクタイを掴まれ何か言われたような気もするし、レジ前辺りで相当混雑があり胸を掴まれたことは覚えている旨供述しており、捜査段階及び公判段階とも、事務所の方からホールに出てアーチを通り抜けた後、エレベーターの方から引き返す客らに押されるようにしてレジまで戻つた旨供述している点ではほぼその供述内容は一致しているのであるが、同被告人がホールに出てアーチを通り抜けた際の周囲の状況やその後の同被告人の行動については、その供述内容は、捜査段階と公判段階とでかなり相違している点がある一方、これらの供述では判然としないが、他の関係証拠によつて認められる事実もある。

まず、同被告人が周囲にいた従業員に対し、「非常階段を開け」と言つて、A階段を開けるよう命じたかどうかの点について、同被告人は、公判段階においては前記のとおり暖昧な供述をしているのであるが、その捜査段階における供述及び本泉昭一の検察官に対する供述調書の抄本によれば、同被告人が右のような指示をしたことが認められる。そして、右本泉昭一の供述調書の抄本及び同人の前記公判調書中の供述部分によれば、本泉は、同被告人の右指示に従い、A階段の扉の鍵を取りに行くため、クローク内に入ろうと二、三度試みたが、煙に行く手をはばまれてこれを果たせず、そこで、アーチの方に引き返し、ボーイ長の新田秀治と共にアーチから出て来る客やホステスに対し、ホールの方へ退がるように言つて押し返したことが認められる。

また、同被告人の捜査段階及び公判段階における供述では判然としない点であるが、第二八回公判調書中の証人越部孝行、第三八回公判調書中の証人新田秀治、第三二回公判調書中の証人片岡正二郎の各供述部分及び北川恒治、片岡正二郎の検察官に対する各供述調書の抄本によれば、同被告人は、レジ前付近で客やホステスに対し、アーチの方を指さして、その方向に逃げるように言つていたこと、これを見た越部と北川が、同被告人の肩の辺りを掴み、「人に言うばかりでなく自分で案内して行かんか、先に連れて行かんか」と言つて、同被告人を先に押しやりながらアーチの方に向かつたが、一、二歩行つた所で、煙と人込みのため前へ進めず、同被告人の姿を見失つてしまつたこと、片岡正二郎は、レジの付近で、同被告人が右手の甲を背にして振り、南の方に向かいながら「逃げてくれ、逃げてくれ」と言つているのを見聞きし、クロークの裏のB階段から皆を避難させようと思い、近くにいた者らに「クロークの裏へ行け」と叫びかけ、アーチの所まで来たとき、「バック、バック」という声がして押し戻されたことなどが認められる。

そして、以上の事実に被告人の前記捜査段階及び公判段階における各供述並びに他の関係証拠を総合して考えると、同被告人は、事務所の方からホールへ出て、まず、ホール内の様子を見たうえアーチを通り抜け、南側エレベーター前付近の様子を見、次いで、レジ前付近において、近くにいた従業員にA階段を開けるよう命じるとともに、付近にいた客、ホステスらに対しアーチから南へ逃げるよう誘導しようとしたが、そのころにはアーチから南側には煙が急速に充満していたため、本泉らによつてアーチ付近で押し止められ、結局F階段の方に向かつたことが認められる。また、右各証拠によれば、同被告人がホールからアーチの南側に来たのは、煙が南側エレベーターの昇降路から多量、かつ、急速に噴き出し始めた直後ころで、その時刻は午後一〇時四二分過ぎころであると認めるのが相当である。

ところで、同被告人は、アーチの南側に来て、最初に右エレベーター前付近を見たときの状況について、捜査段階においては、「客やホステス七、八人が、上つてくるエレベーターを待つている様子だつたが、別に変つた様子は見られなかつた。クローク前やエレベーター前は、いつもと比べ大分暗く感じたが、これなら大丈夫、混乱なく客を送り出すことができると思い一、二分そこに立つて様子を見ているうち、段々暗さが増してきた」旨(前記司法警察員に対する供述調書)また、「エレベーターの付近に客やホステスが何人か立つていたが、別に誰も騒いでいなかつたと思う。いつもよりは暗くなつているように思つたが、煙があるかどうかは、はつきり判らなかつた。エレベーター前の状況を見ていると、その辺は益々暗くなつてきた」旨(前記検察官に対する供述調書)供述しているのである。しかし、以下の各証拠に照らすと、午後一〇時四二分過ぎころから午後一〇時四三、四分ころまでの間の南側エレベーター前、クローク前の状況は、同被告人が捜査段階で右に述べているような、それほど悠長なものでは決してなかつたと認めざるをえない。

まず、大阪府南警察署捜査第一課特別捜査本部作成の「千日デパート出火多数死傷事件煙関係資料」と題する書面(資料No.1及びNo.3の1、2)の写しによると、右書面は、本件捜査担当の警察官が、同被告人を含む多数の事件関係者から事情を聴取したうえ、これに基づきプレイタウン店内各所における煙の流入充満状況をそれぞれ立体図によつて描写させたものと認められるところ、同被告人は、右書面中で、「午後一〇時四二、三分ころクローク前に行つた時、真黒な煙がエレベーター付近に立ちこめていたと説明し、かつ、そのときのエレベーター付近の状況を立体図で描写している(No.3の2の三〇枚目及び二一七枚目)のであるがこれによると、南側エレベーター付近から黒煙が多量に噴き出し、付近の通路一帯に煙が立ちこめており、右エレベーター前通路にいる数人の者も、わずかにその輪郭、人影が分る程度に過ぎないことが認められ、同被告人が前記捜査官に対する各供述調書において述べている状況とはかなりその様相が異なるのである。そして、右各供述調書が事件後一年以上経過してから作成されているのに対し、右No.1及びNo.3の1、2の資料は、同書面中に散見される事件関係者らの作成年月日の記載がほとんど事件の翌月、例外的に翌々月になつていること、鑑定人川越邦雄ほか二名作成は昭和四八年三月二六日付鑑定書によれば、右鑑定は昭和四七年七月二〇日から着手されたことが明らかであるところ、右資料が、右鑑定資料の一つとして使用されていることが認められることなどに照らすと、右資料中同被告人に関する部分も事件後間もない時期に作成されたものと推認できるのであつて、より記憶の鮮明な時期に右のような状況説明がなされていることからすれば、右各供述調書の信用性に疑いを抱かざるをえないのであり、加えて、前記のとおりクローク係の宮脇末野は、午後一〇時四三分ころには生命の危険を感じてクロークからB階段へ向けて脱出を開始しているのであるが、右脱出時の状況は、同女の検察官に対する供述調書の抄本によれば、煙の中を手さぐりでクローク内を通り抜け、B階段へ通ずる通路に出ざるをえない状況であり、また、右通路に出てからも、黒煙が同女を追いかけるようにその背後に流れてきたことが認められること、本泉も、前記のとおり同時刻ころA階段の鍵を取りに行くため二、三回クローク内へ入ろうと試みたが煙にはばまれてこれを果たせなかつたこと等に照らすと、同被告人の右各供述調書の内容は、そのままには信用し難いというべきである。

三救助袋の入口が開かなかつた理由

なお、弁護人らは、塚本一馬ら従業員が救助袋を投下した際、その上枠を起こして救助袋の入口を開けることができなかつたのは、従業員らが救助袋の使用方法を知らなかつたからではなく、これが投下されたとたん、その周囲にいた客らが大勢押しかけて投下作業をしていた従業員らを押しのけたため、上枠を起こそうにも起こすことができなかつたからであると主張するので検討するに、第三三回公判調書中の証人本泉昭一、第三九回公判調書中の証人中屋博の各供述部分及び吉田美男の検察官に対する供述調書を総合すれば、救助袋の投下作業に従事した従業員は、右三名と金子邦雄の四名であること、右四名は、いずれも救助袋の入口の開け方などその使用方法を知らなかつたこと、本泉と吉田は、そのため救助袋を投下した後、すぐその場を離れ、本泉はタレント室を経てF階段へ、吉田は周辺の窓ガラスを割るため隣りの窓へそれぞれ赴き、中屋と金子は引き続きその場に留り、その後、右両名は救助袋の外側を滑り降りて脱出を試み、中屋は成功したが、金子は途中で転落死したこと等が認められる。

ところで、右中屋博の公判調書中の供述部分及び検察官に対する供述調書の抄本によれば、救助袋が投下された直後、付近に集まつていた者らが救助袋の方に押し寄せてきて、そのため中屋ら投下作業をした者が一時押しのけられた事実は認められないことではなく、また、「火災概況」によれば、まだ地上で救助袋の先端部が把持される前の午後一〇時四八分ころ男性一名が救助袋の外側を滑り降りようとして転落死したことも明らかであるが、第三八回公判調書中の証人津沢健司の供述部分及び「火災概況」によれば、右男性の転落後午後一〇時五〇分ころまでの二分間位は、救助袋の周辺に集まつていた者らの中からは誰一人として救助袋を使用しようとする者が現われず、これらの者の動きが一時鎮静していたことが認められること、検証調書及び第四二回公判調書中の証人上田博巳の供述部分によれば救助袋の上枠を上げる操作は、至極簡単で一人でも十分なし得、これに要する時間も数秒あれば足りると認められること等を総合すれば、もし金子、中屋らが救助袋の使用方法を知つておれば、右二分位の間に救助袋の上枠を起こして、その入口を開けることは十分可能であつたと認められ、にもかかわらず、救助袋の近くに従業員が二名もいながらこれをなし得なかつたのは、その使用方法を右両名とも知らなかつたためと認めざるをえない。

なお、塚本一馬については、被告人高木は、捜査段階及び公判段階において、同被告人がF階段から煙に追われてホールに引き返した後、ホールの窓際に向かい、救助袋の設置してある窓際付近を通りかかつた際、塚本ほか二、三名の従業員が救助袋を投下しているのを横目にちらつと見たというのであるが、その時刻ころには、既に救助袋の投下及び地上でのその先端部把持が完了していたと認められること、中屋博は、前記公判調書中の供述部分及び検察官に対する供述調書の抄本において、塚本は、救助袋の設置された場所にある観音開きの窓の掛金に巻きつけてある針金をほどくとすぐその場を離れ、救助袋を投下するときは同人の姿は見えなかつたと思う旨供述していること、吉田美男の検察官に対する供述調書によると、本件火災当時、同人は救出される少し前にタレント室で被告人高木の姿を初めて見かけた旨供述していること等に照らすと、同被告人の右供述部分はそのままには措信し難たい。もつとも、同被告人は、そのとき、塚本が救助袋の設置してある場所でかがんでいるのを見た記憶があるから、救助袋の回りに沢山の人が重なるように集まつてきたことはない、客やホステスらしい人がその回りに何人かいたように思う(検察官に対する昭和四八年六月二〇日付供述調書)とか、また、塚本がしやがんで救助袋をさわつており、その回りに四、五人いて、それを見ていた(八二回公判)などとも供述しているところ、同被告人が同所付近を通りかかつた際、塚本が再び同所に来ていたということも考えられないことはないのであるが、その時点での救助袋の回りの状況が同被告人のいうようなものであるとすれば、塚本が救助袋の使用方法を知つておれば、当然同人によつて救助袋の入口を開けることができたと認められる。しかるに、救助袋の入口は結局最後まで開けられたとは認められないのであるから、塚本もまた、その使用方法を知らなかつたと認めるほかなく、弁護人らの右主張は肯認することができない。

第七  被告人中村の過失責任の有無について

一被告人中村が防火管理者としてなすべき業務

千日デパートビルは前記のとおりの規模、利用形態の建築物であるから、消防法令によりその管理について権原を有する者が防火管理者を定めるべき防火対象物であるところ、被告人中村は、前記のとおり、昭和四二年三月一日から昭和四三年一〇月ころまでの間及び昭和四四年四月三〇日から本件火災当時まで、同ビルの防火管理者の地位にあり、その防火に関する業務、すなわち、同ビルについての消防計画を作成し、これに基づき消火、通報、避難等の訓練の実施、消防の用に供する設備の点検及び整備、避難または防火上必要な構造及び設備の維持等防火管理上必要な業務に従事していたものである。

しかして、同ビルは、千日デパートの営業中は六階以下の階に、また、プレイタウンの営業中は七階に、多数の客や従業員が滞在しているため、いつたん火災が発生すれば多くの人命に危険が及ぶおそれのあることは、当然予想できるのであるから、防火管理者としては、火災の予防に万全を期することはもちろん、万一火災が発生した場合には、その拡大を最小限に留め、同ビル内にいる者を速やかに避難させうる対策を平素から立てておくべきであることは多言を要しない。

もつとも、プレイタウンについては別に防火管理者が選任されているのであるから、同店内にある消火器及び救助袋等の消防関係器具の維持管理並びに同店営業中の同店内における火災予防及び火災が発生した場合の客らの避難誘導については、もつぱら同店の防火管理者である被告人高木が、その管理権原者である被告人桑原の監督の下にこれを行うべきであると解される。

ところで、本件火災は同デパートの閉店後に発生したものであり、被告人中村は、同デパート閉店後に火災が発生した場合の拡大防止措置を平素から講じていなかつたために、火災を拡大させ、多量の煙をプレイタウン店内に流入させたとして、その責任を問われているのであるから、以下においては、同デパート閉店後における防火体制のあり方及びその実態について検討したうえで、同被告人の過失の有無について判断する。

二煙のプレイタウン店内への流入の予見可能性

まず、千日デパート閉店後における千日デパートビル内の人の滞在状況をみると、同ビルの六階以下には同デパート管理部の保安係員ら宿直員と残業しているテナントの関係者がいるのみであるが、七階にはプレイタウンの客や従業員ら多数の者が午後一一時ころまで滞在し、その後も同店の宿直員がいるのであるから、防火管理者が、同デパートの閉店後の防火体制を考えるにあたつては、これらのことを当然念頭に置いていなければならない。たしかに、同ビルは耐火構造の建物であるから、六階以下の階で出火した場合、その火が七階まで燃え拡がるおそれは乏しいのであるが、同デパートの売場には、衣類等燃え易い商品が多量にあり、また、内装用のベニヤ板や木製商品等可燃性の物が多数存在しているのであるから、火災になれば多量の煙が発生し、それが階段や換気ダクト等を通つて、七階まで達することは十分考えられるのである。

本件火災においては、煙がE、Fの各階段、換気ダクト及び南側エレベーターの昇降路を通つて同店に流入しているところ、弁護人らは、このような経路を通つて煙が同店に流入することを被告人中村が予見することはできない旨主張するのであるが、同被告人は、同デパートから出火した場合、煙が上層階に流入する具体的な経路まで予見することは無理としても、煙がプレイタウン店内にまでいずれかの経路を通つて流入するおそれのあることは予見することができたものと認められる。すなわち、昭和四五年九月一〇日宇都宮市内で福田屋百貨店が火災にあつたことから、同月二九日大阪市南消防署において管内の百貨店等の関係者を集めて、右火災の概況を資料に防火研究会が開かれ、同年一〇月三日大阪市消防局においても同市内の百貨店関係者を集めて、右火災の説明会が行われており、また、昭和四六年五月一二日千葉市内の田畑百貨店で火災が発生したことから、同消防局は、同月二五日及び二六日に在阪の百貨店について夜間査察を実施したうえ、同年六月一日、右百貨店の関係者を集めて、右火災と夜間査察の結果についての説明と防火指導の会を開き、また、これとは別に、南消防署も、同月上旬ころ管内の百貨店の特別点検を実施し、同月一一日、関係者を集めて、右火災と特別点検の結果についての説明会を開いているのであるが、同被告人は、右四つの会のうち昭和四五年九月二九日の会を除く他の三つの会に出席し、欠席した分についても、これに出席した外山俊一保安係長からその内容の報告を受けているところ、これらの研究会または説明会では、いずれも、ビル火災においては多量の煙が発生し、これが階段等の貫通部分を通じて上層階に流入する旨の説明がなされているのであるから、同被告人としては、千日デパートビルにおいても火災が発生すれば多量の煙が発生して上層階に流入する可能性のあることを認識しえた筈であり、しかも、同被告人は、同ビル二階のF階段横引シャッターが故障のため閉鎖できないことや換気ダクトが七階まで貫通していることを知つており、同ダクト内にある防火ダンパーが煙の上昇をどの程度阻止する機能を有するかについても何も知らなかつたのであるから、同ビル六階以下で火災が発生した場合、プレイタウンが煙から完全に遮断されている旨確信することは到底できなかつたことが明らかであり、むしろF階段や換気ダクトが同店への煙道になり、多量の煙が同店に流入することのありうることを十分予見することができたと認めるのが相当である。

三千日デパート閉店後の防火体制

次に、千日デパート閉店後の防火体制についてみるに、同デパートでは、予て閉店時刻になると、各テナントにその売場の火元の安全を確認させ、その結果を記載した火元点検カードを保安係に提出させていたほか、いわゆる絞り出し巡回を、プレイタウンを除く千日デパートビル全館について行い、防火防犯についての安全を確認していたことは前記のとおりである。また、本件火災当時は、三階のニチイの売場で電気の配管工事が行われていたところ、右工事は、昭和四七年五月二三日からニチイが行う予定であつた大規模な売場改装工事の一環として行われていたものであるが、これに対しては、同デパート管理部次長からニチイ千日前店長に右工事についての同年四月二九日付要望書を交付し、更に、同年五月一二日、宮田や被告人中村が、ニチイ及び右改装工事を行う業者ら関係者を集めて、右工事についての要望事項を伝え、その中で、工事中の喫煙については、所定の場所に予め水を入れた大きな容器を置き、そこで煙草を吸うよう要望しているから、右工事関係者の煙草の火の不始末等による火災の予防については、一応の対策を講じていたということができる。もつとも、大阪市内の他の百貨店においては、工事等のために閉店後外部の者が店内に入る場合は、百貨店側で喫煙用のバケツ等の容器を用意し、それを使用させていたことが認められるから、これと比べると、右のような要望をしたのみで、喫煙用の容器の準備はニチイまたは工事関係者に任せていた同被告人らの措置は、火災予防のための措置として十全なものであつたとはいい難いのであるが、いずれにしても、本件火災の出火原因は前記のとおり不明であるから、この点をとらえて、火災の予防措置に落度があつたとして、同被告人の過失を問うことはできない。

四同デパート閉店後売場内の防火区画シャッターを閉鎖しておくことの必要性について

したがつて、被告人中村については、本件火災の拡大防止をなしえず、煙をプレイタウンに流入させたことが同被告人の過失に基づくものか否かを問題とすべきであるから、以下この点について検討する。

本件の場合は、せめて三階売場の南北の各機械室を結ぶ線上にある六枚の防火区画シャッターだけでも閉めることができていれば、本件火災を右シャッターの東側のみで喰い止めることができたのではなかろうかと一応考えられるのであるが、仮にシャッターライン上に商品陳列台等シャッターの降下を妨げる物がなかつたとしても、後に説示するとおり保安係員を工事現場に立ち合わせることが可能であつたとは認め難いことや、また、工事関係者が出火を覚知した当時の火煙の状況、例えば、神崎尚は、炎が上つているのを発見した当時天井の方に入道雲のように煙がもくもくと立ちこめていた旨(同人の検察官に対する昭和四七年五月一七日付供述調書)、また、大賀忠司は、炎を見て、五メートルか一〇メートルその方へ走つたが、黒煙がすごかつた旨(第一三回公判調書中の証人大賀忠司の供述部分)それぞれ供述しているのをはじめ、前説示のとおりの工事関係者が出火を覚知してから後の火災の拡大、特に煙の急速な充満状況及び三階売場の南北各機械室を結ぶ線上にある六枚の防火区画シャッターの降下スイッチが、いずれもそのシャッターラインよりも東側に設置されていたこと等に照らすと、工事関係者らが出火を覚知してから三階の防火区画シャッター及び防火扉を閉めようとしたとしても、同人らが、日頃右のような場合を想定した十分な訓練でも受けていない以上、右全部の防火区画シャッターを閉めることはもとより、右各機械室を結ぶ線上にある六枚の防火区画シャッターすら閉鎖することができたかどうかは疑わしいといわざるをえない。

したがつて、本件火災の拡大を防止するためには、千日デパートビルの構造及び防火設備の状況等からみて、予め同ビルの各階段出入口の防火扉及び防火シャッター並びにエスカレーターの防火カバーシャッターを閉鎖しておくべきことはもちろん、防火区画シャッターが設置されている四階以下の各階売場内の防火区画シャッター及び防火扉のうち、三階北側にある東西に四枚連らなつた自動降下式(ヒューズ付)シャッター(約八〇度の加熱で自動的に閉鎖)及び同階での工事のために最低限どうしても開けておく必要があつたと認められる二枚の防火区画シャッター(別紙第四図柱番号28と29間及び57と58間)を除く全部の防火区画シャッター及び防火扉を閉鎖し、万一火災が発生した場合には、右開けておいた二枚の防火区画シャッターを直ちに閉めることができるような体制を整えておく以外に方法はなかつたというべきである。

しかも、火災はいつどこで発生するか予想し難いものであり、同ビルでは、通常の場合千日デパート閉店後も六階以下に滞在しているのは、保安係員と電気及び汽罐関係の宿直員のみであるところ、保安係員は、一階の保安係室もしくは従業員専用出入口の受付にいるか、または同ビル内を巡回しているのであり、電気及び汽罐関係の宿直員は地下一階で勤務しており、同階、一階及び五階以上の階には自動火災報知設備として熱式感知器が設置されてはいるものの、二階ないし四階にはこれが設置されていないのであるから、万一火災が発生した場合、それが二階ないし四階であればこれをすみやかに発見し、保安係員らが直ちに出火場所に駆け付けて、初期消火を行い、または火災の拡大防止のため防火区画シャッターを閉めることが可能な体制にはないと認められ、また、地下一階もしくは一階で出火した場合、直ちに保安係員らが出火を覚知することができたとしても(出火場所いかんによつては右感知器による感知が遅れることも考えられる)、初期消火が必ずしも成功するとは限らず、これが失敗した場合、防火区画シャッターを閉鎖して火災の拡大を防止しなければならないのであるが、火災の状況によつては、特に防火区画シャッターが一九枚もある一階においては、これをとつさの場合に全部閉鎖することが可能であるかは疑わしいことに鑑みると、その構造上他の階に延焼する可能性が比較的低いと考えられる地下一階の場合は別として、少なくとも一階ないし四階の防火区画シャッターについては、前記三階の自動降下式のものを除き、同デパート閉店後はすべて(合計五七枚)これを閉めておかなければならず、工事が行われている場合は、その工事との関係で最低限開けておく必要のある防火区画シャッターのみ開け、それについてはいつでも降ろすことができるような体制を整えておかなければならないというべきである。

なお、一階で出火した場合は、保安係員がそれを直ちに覚知して出火場所に駆け付け、初期消火を行うかたわら、手分けして防火区画シャッターを閉鎖するように平素から訓練していれば、同階の防火区画シャッターは予め閉鎖しておく必要がないともいえそうであるが、同ビルの防火区画シャッターには潜戸がないため、消火作業にあたる者の避難路を確保するためには、ある程度の枚数は開けたままにしておかなければならず、それも、火災がどこから発生するかわからず、かつ、火災の場合必ずしも常に沈着冷静な行動がとれるとは限らないことに照らすと、予め、同階で出火した場合には、初期消火のかたわら、どことどこの防火区画シャッターを残して、あとは直ちに閉鎖する旨決めておくことも困難であり、そうすることは、かえつて消火作業にあたる保安係員の生命の保護という見地からは問題があるというべきであるから、やはり同階についても、平素から閉店後は防火区画シャッターを閉鎖しておく必要があるといわざるをえない。

そして、第一六回公判調書中の証人大森昭次、第一七回公判調書中の証人熊野昭一、第二三回公判調書中の証人音田孝之、第五一回公判調書中の証人米谷重雄、第二二回公判調書中の証人中山広の各供述部分、森田耕一及び岩井正治の検察官に対する各供述調書を総合すると、大阪市消防局は、昭和四六年の田畑百貨店の火災以後、それまでは百貨店の売場内の防火区画シャッターの閉鎖について特に指導していなかつたのを改め、閉店後は閉鎖するように指導することとし、同年五月二五日に千日デパートビルにつき夜間査察を実施した際の講評では、同消防局の係官が、閉店後は防火区画シャッターを閉鎖するよう指導し、これに対し被告人中村や外山俊一保安係長が、売場内の防火区画シャッターを降ろすのは簡単だが、巻き上げが手動式のため時間がかかり、少ない保安係員で多数の防火区画シャッターを巻き上げることは困難なため、防火区画シャッターを閉店後閉鎖していない旨述べたところ、右係官が、上司にシャッターの改善を要求すべきだと答えたこと、岩井正治の前記供述調書によれば、右夜間査察の数日後、同被告人が、電気、汽罐関係の業務を担当している岩井正治に対し、売場内の防火区画シャッターを電動式のものに替えることができないかを尋ねていることが認められることも合わせ考えると、同被告人は、遅くとも右夜間査察のとき以後は、閉店後売場内の防火区画シャッターを閉鎖する必要があることを認識していたと認めるべきである。

五右防火区画シャッターを夜間常時閉鎖する義務はない旨の弁護人らの主張についての判断等

この点について弁護人らは、千日デパートビルの売場内には防火区画シャッターは全部で六八枚もあり、その巻上げはすべて手動式であるため、これを全部巻き上げるためには、多大の労力と時間を要し、到底数名の保安係員で毎日開閉できるものではなく、また、防火区画シャッターの開閉装置は、同一の列にある防火区画シャッターについてはすべて各シャッターに隣接する柱の同一の側に設置してあるため、いつたん閉鎖してしまうと反対側から開けることができない(例えば、三階の各機械室を結ぶ線上にある防火区画シャッターは、その開閉装置がすべてシャッターよりも東側にあるため、西側から開けることができない)うえ、各防火区画シャッターには潜戸がないため、もし売場内の防火区画シャッター全部を閉鎖してしまうと、閉店後保安係員が行う巡回が極めて困難になるところ、このような防火区画シャッターであつても、それが設置された昭和三三年当時においては建築基準法施行令一一二条一項に適合していたのであるから、当時の法令は、防火区画シャッターについては、火災発生の際に閉鎖すれば足りると考えていたのであり、その後潜戸付電動式防火シャッター等が開発され、このような防火区画シャッターの設置が法令により義務付けられるようになつたが、既に設置されている設備については、その取り替えに莫大な費用を要するため、法令の遡及的適用がなされなかつたのであるから、同ビルの売場内の防火区画シャッターについては、その設置当時に法令が予定していた使用方法で足りるというべきであり、夜間常時閉鎖することは義務付けられていない旨主張するので、右主張について判断する。

たしかに、同ビルの防火シャッター及び防火扉が設置された昭和三三年当時においては、売場内にある防火区画シャッターが手動巻上式のものであつても建築基準法及びその関係法令に適合していたこと、その後の防火シャッターに関する法令の改正においても遡及効がなかつたことは弁護人ら主張のとおりであるところ、同ビルにおいては、階段出入口の防火シャッターについては、当初から電動巻上式のものが設置されていたことに鑑みると、ドリーム観光としては、階段出入口の防火シャッターは千日デパート閉店後常時閉鎖するが、売場内の防火区画シャッターは閉店後常時閉鎖する必要はなく、火災が発生したときに閉鎖すれば足りるとの考えのもとに、これら防火シャッター等を設置したものとも考えられる。そして、防火シャッター等の閉鎖についてこのような異なつた取扱いをなすことを当時の建築基準法及びその関係法令も容認していたと解されるのであり、かつ、消防当局も田畑百貨店の火災が発生するころまでは防火シャッター等について右のような異なつた取扱いをすることを特に問題視していなかつたと認められる。

しかし、右のような取扱いが法令上容認されていたとしても、前記のとおり千日デパートビルにおいては、防火区画シャッターを閉店後常時閉鎖する必要性が現に存し、かつ、そのことを知つた以上は、ドリーム観光として、これを可能ならしめるための体制を早急に整えるできであつたというべきである。

しかして、同デパートの一階ないし四階にある防火区画シャッターを毎日閉店後閉鎖するとすれば、前記のとおり右四つの階の売場内には合計六一枚の防火区画シャッターがあり、このうち三階にある前記自動降下式のもの四枚を別にしても、五七枚の防火区画シャッターを毎日閉店後閉鎖し、翌朝開店前に開けなければならないところ、防火区画シャッターを閉鎖するには、各シャッターの開閉装置のダルマと称するスイッチを倒すだけで、シャッターがその自重により降下するので、閉鎖すること自体は容易であるが、これを開けるためには、一枚ずつその開閉装置にハンドルを入れ、手で回して巻き上げなければならず、防火区画シャッター一枚を巻き上げるためには三分ないし五分程度要することが、同被告人の当公判廷における供述、第六六回公判調書中の同被告人の供述部分、第七二回公判調書中の証人進藤文司の供述部分により認められるから、防火区画シャッターを閉店後閉鎖するとして、これを翌朝開店前に宿直の保安係員が開けるとなると、それに要する時間は、計算上約一時間三五分程度であると思料される。すなわち、保安係員のうち宿直をする者は六名ずつ二班に編成されているのであるが、実際には、うち一名が年休を取るため五名で宿直しているところ、従業員専用出入口の受付と保安係室内の火災報知装置副受信機の監視とに常時各一名を要するから、防火区画シャッターの巻上作業に従事できるのは三名に過ぎず、三名で防火区画シャッター五七枚を巻き上げるとなると、一名が平均して一九枚を巻き上げなければならないことになるのであるが、一枚の防火区画シャッターを巻き上げるのに要する時間が三ないし五分であるとしても、全部を巻き上げるまでには、シャッターからシャッターへ移る時間や、枚数が増えるにつれて若干の能率低下は免れ難く、その分だけ時間が長くなること等をも考慮に入れると、防火区画シャッター一枚を巻き上げるための平均所要時間は五分程度とみざるをえないから、結局、右三名がかりで、一名が平均して防火区画シャッター一九枚を巻き上げるには一一〇分、すなわち、一時間三五分程度必要であることになる。しかし、このように時間のかかる作業を、毎日少数の保安係員で行うことが実現可能であつたかは極めて疑わしいといわざるをえないから、一階ないし四階の防火区画シャッターを閉店後毎日閉鎖することは、防火区画シャッターをすべて電動巻上式のものに取り替えるか、あるいは巻上作業に多数の者が従事するような体制を整えない限りできないものというほかない。しかし、右五七枚の防火区画シャッター全部を電動巻上式のものに取り替えることは、同被告人が仮に前記夜間査察の機会に上司にその旨進言していたとしても、本件火災までにこれが実現可能であつたと認めるに足る証拠はなく、本件公訴事実も、防火区画シャッターを電動巻上式のものに取り替えたうえで、これを閉店後毎日閉鎖する義務があつたという趣旨ではなく、現に設置されていた防火区画シャッターについて、これを閉店後毎日閉鎖する義務があつたという趣旨であると解されるから、次に、そのような体制を整えることが可能であつたかについて検討する。

六右防火区画シャッターを閉店後閉鎖するための体制づくりの可能性についての検討

売場内の防火区画シャッターを毎日閉店後閉鎖するためには、これを毎日巻き上げることができる体制を整えておかなければならず、そのためには少数の宿直の保安係員だけでなく、多数の者が巻上作業に従事する必要があるところ、そのための方法としては、保安係員を増員する、千日デパート管理部の他の従業員にも巻上作業を行わせる、防火区画シャッターの設置してある売場を賃借しているテナントに協力を求め、テナント側において賃借場所にある防火区画シャッターを巻き上げさせるという三つの方法が考えられる。

まず、保安係員の増員であるが、毎日防火区画シャッターの巻上作業を保安係員のみで行うためには相当数の増員をしなければならないところ、第一三回公判調書中の証人外山俊一の供述部分、証人坂下金次郎の当公判廷における供述及び大阪地方裁判所昭和四八年(ワ)第四六七三号事件の同人の本人調書、証人山本博次の当公判廷における供述等関係証拠を総合すれば、千日デパートの保安係員は、その開業当初二五、六名いたものの、昭和四二年ころ納入業者制を廃止したのを機に減員され、本件火災当時は日勤専従者二名を含めて一四名になつていたものであり、また、その待遇があまりよくなかつたため、退職者があつてもその補充が困難であつたことが認められ、かつ、ドリーム観光自体、保安係員の待遇を改善してその定着を図るとか、保安係員を増員して保安管理体制を強化することにはむしろ消極的であつた節が窺われることに照らすと、防火区画シャッターの巻上作業を保安係員のみで行わせるために、その増員を同被告人が上司に働きかけたとしても、その実現は極めて困難であつたと認めざるをえない。

次に、テナントの協力を求めることが可能であつたかについてみるに、前記坂下の公判廷供述及び本人調書、同被告人の公判廷供述、第一三回公判調書中の証人外山俊一、第一四回公判調書中の証人森定市及び同菊池静雄、第五三回公判調書中の証人高鍋久男、第七一、七二回公判調書中の証人進藤文司、第七二、七三回公判調書中の証人桑増秀の各供述部分、検証調書、押収してある「火災予防上の指示について」と題する書面九通(昭和五二年押第九九七号の8ないし16)を総合すれば、テナントの中には、その売場内に防火区画シャッターがある場合、売場を少しでも広く活用するために、そのシャッターラインを塞ぐように商品台等を置く者も多く、消防署からの立入検査がある直前には、同被告人らの要請を受けて、商品台等を移動し、シャッターラインを平素から確保しているかのように装おい、(それでも検査の度にシャッターラインが塞がれている個所を発見指摘されている)検査が済めば再びシャッターラインを商品台等で塞ぐ状態で、そのことを保安係員が注意してもほとんど実効がなかつたこと、そのようなことで、現に本件火災当時も地下一階では七枚中二枚が、一階では一九枚中一一枚が、二階では一九枚中八枚が、三階では一五枚中一一枚(南北各機械室を結ぶ線上にある六枚のうち北側から二枚目及び南側から、一、二枚目も含まれる)が、四階では八枚中三枚が下まで完全に降ろし切ることができない状態であつたこと(検証調書添付現場見取図第二五一ないし第二五四図、第二五六ないし第二六四図参照)、また、同被告人を無視して、管理部長と直接交渉して、売場の天井裏を商品倉庫にしたり、一階の外周店舗を物置にし、そこへビル内から直接出入りできるようにし、あるいは消火栓の位置を変更するなどした者もいて、一部のテナントを除いては概して、テナントの防火意識は十分ではなかつたこと、テナントの多くは、同ビル内の防火に関する事柄は、もつぱら同デパート管理部において行うべきものであると考えていたこと等が認められるのであつて、これらの事情に照らすと、仮に同被告人らにおいてテナントに対し協力を求めたとしても、前記夜間査察から本件火災までの間に、テナントの協力を得て防火区画シャッターの巻上作業を行う体制が実現しえたかは甚だ疑問であるといわざるをえない。

なお、同ビルの三階及び四階については、C、E、Fの各階段の出入口にある防火扉及び防火シャッター並びに右両階を結ぶエスカレーターの防火カバーシャッターは、ニチイが四階を賃借した当時当事者間でなされた合意に基づき、ニチイの従業員が閉鎖することになつていたものの、売場内の防火扉及び防火区画シャッターの開閉については双方の間で何らの取り決めもなされていなかつた。しかし、右階段の出入口にあるシャッター等の閉鎖については、ニチイ側の都合もあつて右のような合意ができ、右のような取扱いがなされていたものの、売場内の防火区画シャッター等の開閉については、シャッターラインの確保等について他のテナントの場合と同様の問題があつたうえ、これらをニチイ側で毎日開閉するとなると、ニチイとしても従業員の労働条件にも関係してくることであり、同管理部においてこの点の協力をニチイに求めたとしても、それほどたやすくこれが実現できたかは疑問であることに照らすと、右両階においても売場内の防火扉及び防火区画シャッターの開閉は、結局同管理部において行うほかはなかつたと思料されるのである。

たしかに、大阪市内の百貨店の中には、閉店後防火区画シャッターを閉鎖し、その巻上げを各シャッターに近接する売場の責任者等が行つている店もあつたのであるが、これらはすべて巻上げが電動式のものであつたという事情もあるのであつて、他の店でできたからといつて、直ちに千日デパートビルにおいても実施可能であつたということにはならない。

そこで、同管理部の保安係員以外の従業員にも防火区画シャッターの巻き上げ作業に従事させることが可能であるかについて考えるに、押収してある千日デパート職員出勤表九〇枚によれば、同管理部には、本件火災当時、同デパートの開店前の午前九時三〇分ころまでに出勤する従業員が、保安係員も含めて五四名位いたことが認められるから、このうちには欠勤者やその部署を離れることができない者もいることを考慮に入れても、右程度の人手があれば、一名が一、二枚の防火区画シャッターを巻き上げればよく、これに要する時間もそれほどかからない。したがつて、保安係員以外の従業員にも防火区画シャッターを巻き上げさせるようにすれば、毎日閉店後防火区画シャッターを閉鎖することは可能になるわけであるが、防火区画シャッターの閉店後の閉鎖及び開店前の巻上は、本来保安係員の行うべき業務であると考えられることに照らせば、たとえ一名につき一、二枚程度の巻上作業とはいえ、保安係員以外の従業員にこれを行わせることは、その本来の担当業務以外のことを行わせることになるうえ、出勤時刻もそれだけ早めなければならないのであるから、労働条件の変更であると思料されるところ、当時のドリーム観光の労使関係の実情が、そのような労働条件の変更に簡単に応じるようなものであつたとの証拠はなく、むしろ、一般には、右のように労働条件を変更するためには、労使間において相当回数の交渉を重ねたうえで、その可否が決められるのが通常であることに鑑みれば、昭和四六年五月の夜間査察を機に、被告人中村や宮田次長が、仮に右のような労働条件の変更を従業員側に申し入れたとしても、本件火災までに右申し入れどおりの労働条件の変更が実現していたかどうかは、いずれとも断定し難いといわざるをえない。

また、保安係員以外の従業員に防火区画シャッターを巻き上げさせるのは無理としても、宿直の保安係員のほかに、当日勤務を交替する保安係員にも防火区画シャッターを巻き上げさせることは可能ではないかとも考えられないではないので検討するに、前記のとおり一二名の保安係員は、各班ごとに一名が年休をとつており、かつ、従業員専用出入口の受付要員及び火災報知装置副受信機監視要員各一名は、その持場を離れることができないから、この場合八名で防火区画シャッターの巻上作業を行うことになり、一名あたり七枚の防火区画シャッターを巻き上げることになるところ、これの巻上げに要する時間は、三五分程度であると思料されるから、その分だけ保安係員の出勤時間を早めなければならないのであるが、証人坂下金次郎の当公判廷における供述及び同人の前記本人調書によれば、同管理部の保安係員は、その待遇等の関係で定着率が悪かつたことが認められることに照らすと、右のように保安係員の労働を更に加重するようなことが、本件火災までにできたかは疑問であるといわざるをえない。

七右防火区画シャッターを閉鎖していなかつたこと及び保安係員を三階の工事現場に立ち合わせていなかつたことについての被告人中村の過失責任

1本件火災当日だけでも防火区画シャッターを閉鎖しておくことの可能性について

右のとおり防火区画シャッターを毎日閉店後閉鎖することは、それが一階ないし四階についてのみであつたとしても、可能であつたとは認め難いのであるが、本件火災当日は、三階売場の中央南側において福山電工社の者らが電気配線用の配管取替工事をしていたのであるから、当日のみ特に右工事の関係で火災が発生する場合に備えて、火災拡大防止のため必要最低限の枚数の防火区画シャッターを閉鎖することはできなかつたかについて考えてみるに、右工事は、売場中央の二基のエスカレーターを含む防火区画内で行われていたところ、三階と四階とを結ぶエスカレーターには防火カバーシャッターが設置されているものの、三階と二階及び二階と一階とを結ぶ各エスカレーターには防火カバーシャッターが設置されていなかつたのであるから、右工事のあることを考慮して防火区画シャッターを閉鎖するとすれば、三階のほかに、一、二階の各エスカレーターを取り囲む防火区画シャッター三二枚(一、二階とも各一六枚)も閉鎖しなければならず、三階については、第一一、一二回公判調書中の証人河罵慶次の供述部分等関係証拠によれば、右工事のために南側機械室(出入口は同室の東側に設けられていた)に出入りする必要があつたほか、F階段裏の寝具倉庫まで配管する予定であつたことから、28番及び29番の各柱の間にある防火区画シャッターを開けておかなければならなかつたことが認められ、また、万一の事態が発生した場合の避難路を確保しておくために、57番及び58番の各柱の間にある防火区画シャッターも開けておく必要があると思料されるから、右二枚及び前記自動降下式の四枚を除く九枚の防火区画シャッターを閉鎖しておく必要があるので、合計四一枚の防火区画シャッターを閉鎖しなければならないことになり、これでは、一階から四階までの防火区画シャッターのうち三階の自動降下式のものを除く五七枚を閉鎖する場合と大差なく、また、閉店後に売場内で工事が行われるのは、本件火災当日のみに限つたことではないのであるから、平素から、閉店後に売場内で工事が行われる場合にはいつでも右のように相当多数の防火区画シャッターを閉鎖し、翌日これを巻き上げることができるような体制を整えておかなければならないことを考慮すると、工事のある日に限り防火区画シャッターを閉鎖するとしても、結局、毎日閉店後に防火区画シャッターを閉鎖する場合と同様の問題にぶつからざるをえないところ、右問題が本件火災までに解決可能であつたことの証明がなされていないことは前説示のとおりである。

なお、被告人中村は、捜査段階においては、自分が店長や次長に働きかけて、全テナントの協力を得るような方策を講じ、閉店後は防火区画シャッターを閉鎖すべきであつたとか、平素から閉店後に防火区画シャッターを閉鎖するようにしていれば、シャッターラインも自然に確保されるようになつたと思う旨の供述をしているのであるが、どのような方策を講じれば、毎日閉店後に防火区画シャッターを閉鎖し、翌日開店前にこれを開けることができたのか具体的なことは何一つ供述しておらず、かつ、これまで説示したところに照らすと、右のようなことが可能となるような方策を同被告人が具体的に考えたうえで供述をしたとも認められないから、同被告人の右のような供述があるからといつて、それのみで、平素から閉店後に防火区画シャッターを閉鎖することが可能であつたと認めるわけにはいかない。

したがつて、本件火災当日、予め防火区画シャッターを閉鎖していなかつたために火災が拡大したことについて、被告人中村及び宮田次長の過失責任を問うことはできない。

2三階工事現場に保安係員を立ち合わせることについてのドリーム観光側の義務

なお、被告人中村に対する本件公訴事実は、防火区画シャッターを予め閉鎖することができたことを前提とするものであるが、保安係員を三階の工事現場に立ち合わせていれば、予め防火区画シャッターを閉鎖していなくても、本件火災の拡大を防止することができた旨主張しているとも解する余地があるので、以下この点についても付言しておく。

まず、本件の場合、三階の工事現場に千日デパート管理部の保安係員を立ち合わせる義務があつたかについて考えてみるに、千日デパートの「職務分掌」によると、保安係の職務の一つとして、「店内諸工事等の立会い並びに監視取締り業務」が挙げられているところ、本件火災当時までの店内諸工事、特にテナントの行う諸工事への保安係員の立ち会いの実情については、関係者の供述相互間に食い違いがあつて、必ずしも明らかではないものの、関係証拠を総合すると、少なくとも昭和四〇年ころ以降は、一部のテナントが行う工事の場合を除き、一般には立ち会いをしていなかつたことが認められる。しかしながら、ドリーム観光と各テナントとの間の売場賃貸借契約の内容をみると、千日デパート閉店後テナントが宿直することを禁止していること、テナントが残業等で閉店後も同デパート内に残る場合は、事前に同デパート管理部に届け出ることを要し、売場の施設等の改造工事をする場合は、事前に同管理部の許可を受ける必要があること、テナントは毎月賃料のほかに附加使用料を支払う義務があること等が定められていること、各テナントの売場は、閉店後も、解放されたままの無防備な状態にあることが認められること、証人坂下金次郎の当公判廷における供述、第七一、七二回各公判調書中の証人進藤文司、第七二、七三回各公判調書中の証人桑増秀、第七四回公判調書中の証人伊藤隆之の各供述部分等関係証拠を総合すると、右附加使用料は、同デパートの管理のための費用を含むものであり、同管理部の保安係員等従業員の給与は、テナントの支払う賃料及び附加使用料によつて賄われていたこと等が認められること、一方、右各証拠によると、テナントがその売場で工事をする場合は、通常テナントまたはその従業員が工事業者を監督するために居残つていたことが認められること、残業のためであれ、工事監督のためであれ、テナントまたはその従業員がその売場にいる以上、そのテナントの商品等については他の者が管理をする必要は認められないこと、しかし、工事の監督のため居残つているテナントまたはその従業員は、工事の進行状況の監督を主として行うのであるから、その目の届く範囲は工事現場とその付近に限られること等、以上の諸点を総合勘案すると、ドリーム観光と各テナントとの間においては、閉店後テナントが不在の間は、その売場の管理をドリーム観光が行う旨の管理契約が売場賃貸借契約に付随して締結されていたものと認められるのであり、右管理契約によりテナントがその売場の工事の監督のため居残つている場合においては、そのテナントとの関係では保安係員を立ち会わせる義務はないが、他の不在のテナントとの関係では、防犯、防火その他の事故防止上、ドリーム観光は、その保安係員を工事現場に立ち合わせて、その周辺を警備させるべき義務を負つていたと解するのが相当である。そして、三階の売場は、そのほとんどをニチイが賃借していたものの、ニチイの売場の中には別紙第四図のとおり「マルハン」等四名のテナントの売場が点在し、いずれも本件火災当時、不在であつたのであり、しかも、本件ニチイの行う工事には、その監視のためのニチイの従業員は一人も立ち会つていなかつたのであるから、ドリーム観光としては、保安係員を右工事に立ち会わせるべき義務があつたといわざるをえない。また、千日デパートビルの防火管理者である被告人中村としても、前説示のような同ビル内のシャッター等の現状、燃えやすい商品等が多量に置かれてあつたこと、人の現在状況等に鑑みれば、万一の火災の発生に備えて、三階の工事現場に保安係員を立ち合わせるよう宮田次長に要請すべきであつたというべきである。

3保安係員を立ち合わせなかつたことについての被告人中村の過失責任

そして、もし保安係員が本件火災当時同ビル三階の工事現場に立ち合つていれば、出火と同時に同階の防火区画シャッターを閉鎖することができたのではないかと考えられるのであるが、それでは、本件火災当日、保安係員を右工事現場に立ち合わせることが現実に可能であつたかについて検討してみるに、本件火災当日宿直していた保安係員は、欠勤者が二名いたため四名であり、このうち二名は、前記のとおり一階の従業員専用出入口の受付及び保安室内での火災報知装置副受信機の監視等の勤務についていなければならず、残り、二名は、千日デパートビル内の巡回をし、二四時間勤務であるから、右巡回の合間には仮眠をとる必要もあるところより、翌朝まで行われる予定であつた右工事の現場に立ち合うために一名を割くことはできなかつたものと認めざるをえない。もつとも、巡回を一名で行えば、他の一名が工事現場に立ち会うことは可能であるが、巡回については危険防止のため二名以上で行う必要があると考えられるから、工事現場に立ち会う人員を捻出するために、巡回の人員を減らすことはできない。また、非番の保安係員を臨時に宿直させて数の不足を補うことも、その者らは、前日二四時間勤務についているのであるから、できないものと考えざるをえない。

結局、以上に説示したような当時の保安係員の勤務体制に鑑みると、工事現場に立会人を付するためには、保安係員を増員するか、同管理部の他の従業員に閉店後の夜間勤務をさせなければならないのであるが、第七四回公判調書中の証人伊藤隆之の供述部分等関係証拠によれば、本件火災当時ドリーム観光の常務取締役で、千日デパートの店長(同ビルの管理権原者)でもあつた右伊藤自身が、テナントがその売場で行う工事については、大工事の場合を除き当該テナントが立ち会うべきで、ドリーム観光側から立会人を出す必要はないとの見解をとつていたことが認められること、また、同会社は前記のとおり保安係員を増員することに消極的であり、かつ、保安係員の増員や他の従業員を臨時に宿直させるなどすれば、当然そのための新たな出費が必要となるところ、テナントから徴収する附加使用料すなわち共同管理費は、同デパートの開業当初に定められた額にすえ置かれたままで、その間値上交渉はなされたものの、テナントから拒否されており、本件火災当時は、三度目の値上案をテナントに示し、それについてテナントが検討中という状態であつたことが関係証拠により認められること等に照らすと、たとえ被告人中村や宮田次長が、昭和四六年五月二五日の夜間査察で消防当局からの指導を受けて以後、その上司である伊藤店長に対し、テナントがその売場で工事をする場合に、同管理部から立会うための人員を確保するための措置を進言していたとしても、それが容認されていたかは、甚だ疑問であるといわざるをえず、また、同被告人や宮田次長に、右のような措置をとりうる独自の権限があつたと認めるに足る証拠もない。

以上の次第で、本件火災当時、千日デパートビル三階の工事現場に保安係員を立ち合わせる必要があつたとしても、被告人中村及び宮田次長が、これをなしえたとの証明はないから、これが可能であつたことを前提とする同被告人の過失責任を問うことはできない。

第八  被告人桑原及び同高木の過失責任の有無について

一右両名の業務内容とその職責及びB階段からの避難誘導の可能性等について

1防火対象物

プレイタウンは、前記のとおりの規模、利用形態のキャバレーであるから、消防法令によりその管理について権原を有する者が防火管理者を定めるべき防火対象物であることは明らかである。

2被告人桑原の業務内容

被告人桑原は、昭和四五年五月にプレイタウン等を経営する千土地観光の代表取締役に就任しているところ、同会社の運営は、前記のとおり人事面、経理面等でドリーム観光から大きな制約を受けているものの、千土地観光の日常業務は松屋國三を除く同被告人ら四名の取締役において処理し、特にプレイタウンほか二店については、同被告人が各店の支配人を通じてこれらの管理を担当していたことが認められるから、同被告人はプレイタウンの管理について消防法八条の定める「権原を有する者」に該当するというべきであり、したがつて、同被告人は同条の定めるところに従い、防火管理者を定め、これに消防計画の作成、右計画に基づく消火、避難等の訓練の実施、消防の用に供する設備、消火活動上必要な施設等の点検及び整備、避難または防火上必要な構造及び設備の維持等防火管理上必要な業務を行わせるべき義務を負い、これらの点について防火管理者及びその他の従業員を指揮、監督する業務に従事していたものというべきである。

3被告人高木の業務内容

次に、被告人高木は、昭和四五年九月一日にプレイタウンの支配人になり、昭和四六年五月二九日付で同店の防火管理者に選任されたものであるから、防火管理者に就任後は、消防法八条の定めるところに従い、同店について、消防計画を作成し、これに基づく消火、避難等の訓練の実施、消防の用に供する設備の点検及び整備、避難または防火上必要な構造及び設備の維持等防火管理上必要な業務を行う義務を負い、右業務に従事していたものである。なお、同被告人が支配人に就任後、防火管理者に選任されるまでの間、同店には防火管理者が選任されていなかつたのであるが、この間も右のような業務を行う者のいることが同店の防火管理上必要であることは多言を要しないところ、被告人桑原を補佐して来店した客らの安全に万全を期すべき支配人の職責に照らし、右期間中も、同被告人は、管理権原者である被告人桑原の指揮、監督の下に右同様の防火管理上必要な業務を果たすべき立場にあつたというべきである。

4プレイタウンにおける消防訓練の実施状況及び右両名の防火意識

そこで、プレイタウンでの過去の消防訓練の実施状況をみると、同店が開業した昭和四二年及び四三年に各二回、昭和四四年から昭和四六年までに年間各一回の割合で、消火、通報、避難を総合した訓練が所轄消防署の係官の指導の下に行われているほかには消防訓練は行われておらず、また千日デパートビル全体としての総合的な訓練も行われたことはない。訓練の参加人員は、昭和四二年に五〇名参加したのが最高で、昭和四三年は二〇名前後であり、昭和四四年以後は三〇名程度であつた。

このうち、被告人高木が同店の支配人に就任後行われた訓練は、昭和四六年七月に実施された分一回のみである。その内容は、第二三回公判調書中の証人森本政一の供述部分等関係証拠によれば、ステージ付近から出火したとの想定で初期消火、通報、避難を行うというものであつたが、実際には、そのほとんどの時間が、南消防署から指導に来た係官による消火器の使用方法や初期消火の必要性、避難についての説明に費やされ、避難方法についての消防署係官の指導も、特にB階段が最も安全であるから同階段の方に逃げるようにというような指導はなされず、とにかく、同店内にある四個所の階段のうち、火や煙が来る方向と反対方向にある安全な方へ逃げるようにといつた程度のもので、本件の場合のように煙だけが店内に流入した場合を想定し、煙の中を切つて逃げるというような点についての指導や、ビル全体としての総合訓練の必要性についての指導はなされなかつたことが認められる。

なお、昭和四五年以前の消防訓練の具体的な内容は、証拠上必ずしも明らかでないのであるが、福田八代枝や桑垣勝子ら従前から同店に勤務していたホステスらの供述や第五八回公判調書中の証人西田薫の供述部分等関係証拠を総合すれば、昭和四五年以前に実施された消防訓練も、昭和四六年のものと大同小異であり、いずれも火元は同店内に想定して行われたことが推認できる。

同店において実施された消防訓練は右の程度のものであつて、救助袋については、その使用方法の口頭説明すら一度も行われておらず、千日デパートビルの六階以下の階から出火したことを想定しての避難訓練が行われたことも全くなかつたものである。

また、被告人高木は、自分の店から火を出しさえしなければよいと考え、店内の火元の点検等火災の予防に関する事柄については気を配つていたものの、実際に火災が発生した場合の対策については、同ビルの六階以下の階で出火した場合はもちろん、プレイタウン店内から出火した場合についても何も考えていなかつたもので、特に、六階以下の階で出火した場合にその火や煙がプレイタウン店内にまで及んでくることがありうるなどということは、全く同被告人の念頭にはなかつたものである。たしかに、同被告人は、一応は通報連絡、消火、避難誘導、工作、救護の各班からなる自衛消防隊を編成して、ホステス、バンドマン及びアルバイトやパートの者を除くその余の従業員のうち三〇名を右各班に配置しており、また、前記のとおり消防訓練を一回実施してはいる。しかし、自衛消防隊といつても、現実には、その編成表が同店の事務所の壁に貼り出されてあつたのみで、その隊員となつている従業員に対し、その所属する班が果たすべき役割などについては何らの説明もなされていないのであるから、それが火災の場合に有効に機能しうる体制にあつたとは到底認められないし、また、同被告人が実施した唯一の消防訓練も、前記のとおりまことにお座なりのものであつたことに照らすと、同被告人は、火災が発生した場合の対策を全くとつていなかつたに等しいといわざるをえない。

そして、このことは被告人桑原についても同様であり、同被告人も、万一火災が発生した場合のことを念頭に置いて、被告人高木ら同店の従業員を指導、監督したことはなかつたものと認めざるをえない。

5B階段の安全性について

ところで、本件火災当時、死傷者を出すことなくプレイタウン店内から避難することが可能であつたか否かについてみるに、既に説示したところから明らかなように、同店内から利用可能な階段のうち、E、Fの各階段には煙が充満していたのであり、検証調書等関係証拠によれば、A階段も、二階出入口の東西に一枚ずつある防火扉の上部の壁が、いずれも本件火災により約一方メートルにわたつて落下したため、そこから煙が内部に流入し充満したことが認められるのに対し、B階段のみは、煙が出火階から直接流入して充満することはなかつたことが認められる。前記中西正博の公判調書の供述部分によれば、同人がポンプ車で現場近くに到着し、直ちにB階段を駆け上つたところ、五階付近で多量の黒煙が上から降りて来て、息もできない状態になつたため、六階から引き返さざるをえなかつたことが認められるのであるが、検証調書等関係証拠に照らすと、その際B階段に充満していた煙は、同階段から避難した宮脇、飯田両名若しくはそのいずれかが、同店のクローク南側出入口及びB階段出入口の各扉を開け放したままにしておいたために、同店内に充満した煙が、B階段に流入したものと認められ、現に飯田が午後一〇時五〇分ないし五一分ころクロークを通り抜けてB階段を降りていることを考慮すると、ともかくも、クロークさえ無事通り抜けることができれば、そのころまではB階段は通行可能であつたと認めることができる。

そして、B階段が構造上千日デパートの売場から遮断されていることは前記のとおりであり、かつ、救助袋もプレイタウンの従業員の手によつて降下され、地上で把持されていたことに照らすと、被告人高木が防火管理者として、平素からB階段の状況を把握し、六階以下の階で出火した場合の安全な避難路としてはB階段しかないことを十分認識して、折に触れ同店の従業員に対しそのことを教え、たとえクロークの辺りに煙が充満していても、そこを突つ切つてB階段から避難するよう指導、訓練するとともに、救助袋の使用方法を従業員に対し周知徹底させ、少なくともその投下訓練さえしていれば、本件火災による煙がプレイタウン店内に流入し始めた午後一〇時四〇分ころから午後一〇時五一分ころまでの間に、B階段と救助袋とを利用して同店内にいた者全員を地上まで無事避難させることができたのではなかろうかと一応考えられないではないのである。

6被告人高木が、仮に防火管理者としての業務を忠実に遂行していた場合に、同被告人が立案したであろうと考えられる避難計画及び南側エレベーターの昇降路からの多量、かつ、急速な煙の流入についての予見可能性

そこで、まず、被告人高木が、防火管理者としてその業務を忠実に遂行していれば、千日デパートビル六階以下で火災が発生した場合に備えて、どのような避難計画を立てることができたかを検討する。

まず、避難計画を立てるためには、ビル火災の特徴及び避難のあり方並びに同ビルの階段等の構造を知つたうえで、避難路を決めなければならないところ、同被告人が、ビル火災の特徴や避難のあり方についての知識を得るためには、防火管理者の資格を得るために講習を受けた際に、その教科書として用いられ、その後も同被告人の手許に保管していた「防火管理の知識」と題する冊子を読み、消防訓練等の機会を捉えては消防関係者の指導を受けるより他に方法はないものと思料される。ところが、同被告人は、「防火管理の知識」をむずかしくておもしろくない本だと思い、ほとんど読んでいなかつた。しかし、同被告人は、キャバレーの支配人であるばかりか、その防火管理者として、火災の予防のみならず、万一火災が発生した場合には多数の客や従業員を安全に避難させる業務上の義務を負つているのであるから、これを熟読して、防火管理者として必要な知識を修得するよう努力すべきであつたことは多言を要しない。たしかに、「防火管理の知識」の中には専門的な用語も随所にあつて、同被告人の能力をもつてしては理解し難いと思われる内容が少なからず含まれていることは否定し難いが、(そのような場合には消防係官に教示を求めて理解に努めるべきである)同被告人の理解しうる部分のみを拾い読みするだけでも、同被告人が、ビルの七階にあるキャバレーの防火管理者であるとの自覚を持つてさえいれば、左記程度のことは十分知りえた筈である。すなわち、

(一) ビル火災の場合、出火した階から他の階まで燃え拡がるおそれは少ないが、発生した煙は内部に充満し、これがわずかな隙間を通して非常な速さで流動し短時間で広い範囲に充満するから、煙の危険性を十分認識していなければならない。

(二) 煙は、出入口、階段、エレベーター、ダクト等の貫通部から立体的に奔流する。防火シャッターは煙の遮断には十分でない。

(三) 避難は原則として地上に行い、エレベーターを使用してはいけない。

(四) 避難する場合は、煙の滞溜する場所、行き止まりになるような場所、熱気流等が通過する場所や吹出口等は危険であるから、これを避け、姿勢を低くして、できれば濡れタオル等で口や鼻を覆い、呼吸を少なくして行動しなければならない。

(五) 避難器具は、階段が火や煙によつて閉ざされ、これを使用しての避難が困難となつた場合に、逃げ遅れた者に残された唯一の避難手段として使用されるものである。

(六) 公衆は、とつさの場合は自分の入場した出入口に向かつて走り、また、一人が駆け出すと、そのあとを追つて一挙に盲目的に殺到する。

(七) 消防訓練には、消火訓練、通報訓練、避難訓練等の部分訓練と、これらの訓練を三種以上組み合わせて行う総合訓練とがあり、総合訓練は、キャバレーの場合六か月に一回以上実施しなければならない。

(八) 消防訓練をする場合は火元を想定して行う。

さて、右のような知識を同被告人が得たとすれば、同ビルの六階以下の階で火災が発生した場合でも、プレイタウンが他の階から完全に遮断された機密構造になつていない以上、同店内に煙がどこからか流入してくるおそれがあるから、煙の具体的な流入経路や速度についてはわからないまでも、とにかく速やかに客や従業員を避難させる必要があり、その場合、エレベーターを利用せず、A、B、E、Fの四階段のいずれかを使つて地上に避難させるべきであるということに同被告人は気付き、そうすれば、当然、どの階段が最も安全確実な地上への避難路であるかということに考えが及ぶ筈である。そして、この点については、同被告人が、自ら右四階段と同ビル一階にある八個所の出入口の状況を調べ、かつ、千日デパート管理部の保安係に問い合わせることにより、同デパートの閉店時刻である午後九時以降は、同ビル一階の出入口のうち利用可能なものはプレイタウン専用出入口と従業員等専用出入口しかないこと、A、E、Fの各階段は、当初から防火シャッター等が設置されていないF階段出入口を除き、各階の出入口のすべての防火シャッター及び防火扉が閉鎖施錠されていること、B階段は、二階ないし六階についてはB階段と各階の売場との間にそれぞれ二枚ずつ、地下一階については一枚設置されている防火扉が常時閉鎖施錠されているが、プレイタウンのクロークとB階段との間にある二枚の防火扉及びB階段一階出入口にある板戸は施錠されていないことを容易に知りえたことは明らかである。してみれば、午後九時以降は、A階段やE階段を利用して客や従業員を避難させようとしても、階段から外へ出ることができないため地上まで避難することはできない道理であるから、地上まで無事に避難させるためには、B階段を通つて同ビル一階のプレイタウン専用出入口からビル外に脱出させるか、F階段を通つて一階の売場まで行き、そこから従業員専用出入口まで誘導してビル外へ脱出させるしかないわけであるが、六階以下の売場で出火した場合、一階売場も火災となつていることは十分考えられるから、F階段を利用して避難することは危険であり、また、午後九時までの間も、A、E、Fの各階段を避難路とすれば、地上に出るためには必ず一階の売場を通らねばならないから、六階以下の売場で出火した場合には、その時刻の如何を問わずA、E、Fの各階段を避難路とするのは危険であること、一方、B階段は前記のとおり各階の売場とは防火扉によつて遮断されているため、売場の火災による火や煙がB階段にまで侵入するとは考えられないから、B階段こそ安全確実に地上に避難することができる唯一の階段であるとの結論に到達することは十分可能であつたと認められる。

なお、検察官は、B階段が避難階段として最適であることの根拠として、火煙の侵入を防止する構造になつていることと、B階段が同ビルの外部に設置されていて外気が流入する構造になつていることを挙げているところ、たしかに、検証調書添付の同ビル南側を外から撮影した写真(記録第一〇冊編綴の写真第一九号及び第二八号)を見ると、四階ないし七階にあるB階段の西側及び南側踊り場がバルコニー風になつて、その部分が外気と接する構造になつているようにも見えるのであるが、同調書添付の同ビル各階の平面図並びにB階段についての図面及び写真を仔細に検討すれば、バルコニー風になつているのは、B階段出入口扉の外側から千日デパートの売場もしくはプレイタウンに至る通路部分及びB階段の南側壁の外側部分であつて、B階段そのものは踊り場も含めて同ビルの屋内にあり、そのどの部分も外気と接する構造になつていないことが明らかであるから、B階段の安全性の根拠は、それが同ビル一階のプレイタウン専用出入口に通じていることと、防火扉によつて各階の売場から遮断されていることに求めるべきである。

このようにして、B階段が避難路として最適であることを同被告人が認識したとすると、防火管理者としては、次に、クロークを通つてB階段まで客や従業員を安全に誘導する方法を考えなければならない。プレイタウンの従業員数及び客の収容能力は前記のとおりであるから、従業員の出勤率を七割、客の数を五〇名位と控え目にみても、同店内には営業時間中は常時一五〇名位がいることになるところ、客は、火災が発生したことを知れば、一般に自分が来店した際に利用したエレベーターで避難しようとすることが予想されるから、エレベーターの方に向かうのを止めて、クロークの方に向かわせなければならないとともに、クロークは、その前の通路に面した所に床上九〇センチメートル、幅五〇センチメートルのカウンターが設けてあり、その西端の天板をはね上げ、その下にある開き戸を開けて出入りするようになつているところ、その出入口は幅が六五センチメートルしかないため、一人ずつしか通ることができないから、客や従業員をクロークを通つてB階段へ無事に向かわせるためには、ホール出入口からクローク出入口に至るまでの間に従業員を数名配置するか、またはホール出入口付近とクローク出入口付近に従業員を数名配置して、一時に客や従業員がクロークに殺到するのを防ぎつつ、円滑にクロークを通り抜けることができるように誘導しなければ、クローク前が大混乱に陥り、全員をB階段から無事に避難させることは極めて困難となる。

そして、同被告人が、右のような避難路及び必要な誘導措置の必要なことに気付いたとすれば、そのような措置を講じることが可能か否かについても思いを巡らす筈であるが、ホールの出入口からクロークまでの間にも煙が充満すれば、ホールからクロークまで行くことが困難となり、右のような避難誘導を従業員にさせることもできないから、避難計画を立案するためには、ホール出入口からクロークまでの間に煙が充満することがありうるかどうかについても、同被告人は検討しなければならない。そこで、右のような観点からクローク付近を見ると、六階以下で火災が発生した場合に煙の侵入路となりそうな場所としては、A階段と二基のプレイタウン専用エレベーターとが考えられるのであるが、A階段の七階出入口は防火扉が閉鎖施錠されているから、同階段からプレイタウン店内に多量に煙が流入してくるとは考え難い。また、二基の専用エレベーターについては、いずれもエレベーターの昇降路が地下一階から七階まで貫通しているものの、その乗降口は地下一階と七階のみにあり、それ以外の部分はコンクリートブロック壁で完全に囲われている筈のものであり、かつ、地下一階のプレイタウン専用エレベーターホールと千日デパートの売場とは防火扉で遮断されているのであるから、エレベーターの昇降路の壁に欠陥のない限り、これも煙の侵入路になるとは考え難い。しかし、現実には二基の専用エレベーターのうち南側エレベーターの二階及び三階の売場に面した壁に隙間があつたため、これが煙の侵入路となつたのであるが、右隙間は売場の天井の裏にあつたため、本件火災で天井が落下するまで誰もその存在に気付かなかつたことに鑑みると、同被告人もこれに気付くことができたとは認め難いから、同被告人が、六階以下の売場から出火した場合の避難計画を立てるとすれば、ホール出入口からクロークに至る間の通路には多量の煙が急速に充満することはないとの前提の下に、その案を練ることになると思料されるのである。

したがつて、同被告人が、前記のとおり防火管理者としての業務を忠実に遂行して、六階以下の売場から出火した場合の避難計画の立案をしておれば、従業員に対して避難の指導もしくは訓練をする場合も、六階以下の売場から出火しても、B階段は安全であり、ホール出入口からクロークを通つてB階段に行くまでの間もA階段やエレベーターの方から煙が多量に侵入してくることはないから、落ち着いて行動するよう教えたものと考えられる。

検察官は、建築工事に手抜工事が行われることは社会通念上予想できることであるから、エレベーターの昇降路から煙が流入することは十分予想可能であつたと主張するのであるが、エレベーターの昇降路について手抜工事を予想するのであれば、これに隣接するB階段の壁や防火扉の設置部分についても手抜工事を予想する余地があり、そうであれば、B階段が、煙の侵入しない階段であると考えることもできなくなる。逆に、B階段について手抜工事がないものと考えるのであれば、エレベーターの昇降路についても手抜工事がないものと考えたとしても不合理ではないから、B階段は構造が完全であるが、エレベーターの昇降路には隙間がありうると考えるに足る特別の事情の存することを窺わせるような証拠のない本件においては、プレイタウンの防火管理者が、その業務を忠実に遂行していれば、避難については前記のとおり考え、それに従つて従業員を指導したであろうと考えざるをえない。

もつとも、同ビルの六階以下の階で火災が発生した場合に、その発生場所いかんによつては、プレイタウン店内へその専用エレベーターの昇降路から煙が侵入することも全く予想しえないわけではないが、エレベーターの昇降路の壁に欠陥のないこと及び地下一階の同店専用エレベーターホールと売場との間の防火扉が閉まつていることを前提にして考えると、それは、同店専用の地下一階のエレベーターホールもしくは一階出入口において火災が発生し、その煙がエレベーターの昇降路を通つて七階に達する場合である。しかし、同所にある可燃物は、エレベーターホールの天井にある飾りモール及びちようちん六個と一階出入口の床に敷かれたじゆうたん及びビロード張り板壁位のものであるからそれほど多量の煙が七階に達することはないと思料されるが、その場合にも地上への避難を考えるとすれば、B階段の一階出入口の板戸や付近の板壁が燃えていることも予想され、かつ、消防当局は、避難については火元から遠い方に避難するといういわゆる二方向避難ということを指導していることに照らすと、この場合は、B階段ではなくF階段を利用して一階売場へ行き、そこから従業員専用出入口を通つて屋外へ避難するのが最適の方法であるということになり、結局、同被告人が防火管理者として、六階以下の階で火災が発生した場合の避難計画を立てたとしても、煙の来る方向に向かつて逃げるという発想が浮かんだとは考え難く、煙が如何なる方向から来ようともB階段から避難するとの避難計画を立てることはできないものといわざるをえない。

7B階段へ避難誘導する方法での結果回避の可能性

しかして、被告人高木が、前記のような思考過程を経て、六階以下の階で火災が発生した場合には、B階段を利用して客が従業員を避難させる計画を立て、これに基づいて従業員を指導し避難訓練をしていたと仮定した場合、本件において同被告人や従業員らが如何なる行動をとつたのであろうかを考えてみるに、まず、同被告人は、換気ダクトの開口部から煙が噴き出しているのを見て六階以下の階で火災が発生したことを覚知し、B階段から客や従業員を避難させようと考え、ホールを通つてクロークの方へ向かつた筈である。そして、クローク前付近に多量の煙がなければ、アーチからクロークまでの通路またはアーチとクローク前とに適宜従業員を配置するなどして、客や従業員をクロークからB階段へ誘導して避難させることができた筈である。しかし、現実には、同被告人がアーチを通り抜けてクローク付近まで行つたのは、エレベーターの昇降路から多量の煙が急速に噴き出し始めた直後のころであつたと認められるから、既に、従業員らを右のように配置して避難誘導にあたらせることは困難な状態になっていたといわざるをえない。したがつて、客や従業員をB階段から避難させるためには、同被告人やその付近にいた従業員の新田秀治や本泉昭一らが、アーチの辺りに立つて、クロークの向こうに避難階段があるからそちらへ逃げるよう指示するとともに、従業員らが先導して、客をその方に誘導するほかないのである。ところが、既に説示したとおり、十分な調査検討のうえでB階段を避難路とする場合、アーチより南側には避難に障害となるほど多量の煙が流入しないとの前提で同被告人は避難計画を立てていた筈であるから、プレイタウン専用の一階出入口もしくは地下一階エレベーターホールで火災が発生していると考えるには、あまりにも多量の煙がエレベーターの昇降路から流入するという予想外の出来事に直面して、同被告人の頭の中は混乱したであろうと考えられるのであり、同被告人がその事態を正確に理解し、この場合にも、やはり安全な避難路はB階段しかありえないとの判断を寸刻の間になしえて、これに対処しえたとは考え難いのである。すなわち、本件においては、煙は、午後一〇時四二分ころからは多量、かつ、急速に流入し、同被告人や片岡正二郎がF階段やE階段に向かつた午後一〇時四四、五分ころには、アーチより南側一帯に充満していたと認められ、しかも、クローク係の宮脇末野がクローク内から通じている電気室の窓を開放したままいち速く避難していることに鑑みると、エレベーターの昇降路から噴き出した煙は、まずクローク前からその内部にかけて充満し、午後一〇時四四、五分ころにはアーチ付近までが煙で一杯になり、そのころには、アーチより南側は停電を待たずして暗闇になつたと認められることを考慮すると、同被告人が、仮に平素から火災の場合の避難方法について意を用いていたとしても、アーチを通り抜けてクローク付近まで行つた午後一〇時四二分過ぎころから、F階段へ向かつた午後一〇時四四、五分ころまでの二、三分間のうちに、エレベーターの昇降路から多量の煙が噴き出していても、なおこれに隣接するB階段には煙が流入していることはありえないと判断して、客や従業員に対し、検察官が主張しているように、煙の中を突つ切つてでもクロークを通り抜け、B階段から逃げるように指示することが果たして可能であつたか、甚だ疑問であるといわざるをえない。

そして、仮に、同被告人が速やかに右のような判断をなしえて、客や従業員に対し右のような指示をしたとしても、アーチより南側には前記のとおり煙が充満している状況のもとでは(アーチからクローク内のB階段へ通ずる通路への出入口扉までの距離は一〇メートル余である)客や従業員、特にクロークからB階段に至る経路の状況について全く不案内の客らが、直ちにクロークを通り抜ければ安全であると信じて、混乱なく行動を起こすかは疑問であり、また、仮に数名がクロークの方へ煙を突つ切つて向かつても、それにつられて大勢の者が一時に殺到することも考えられ、そうなれば、同被告人らが、これを抑えきることは極めて困難であり、クロークの出入口は幅が六五センチメートルしかなく、しかも付近には煙が充満しているのであるから、クロークの出入口付近で大混乱が生じることは必至であり、本件死傷者全員が無事にクロークを通り抜けてB階段に達し、地上まで避難しえたかは、甚だ疑問であるといわざるをえない。

次に、本泉らは、午後一〇時四〇分ころエレベーターの昇降路から煙が流入し始めるのとほぼ同時に、これに気付いているのであるが、同人らは、同被告人がアーチより南側にやつてくるまでに、換気ダクトの開口部から煙が噴き出していることを知りえたとは認められないから、仮に六階以下の階で火災が発生した場合の避難訓練を受けており、直ちに避難誘導に取り掛かつたとしても、前記のような指導内容に照らせば、この場合は、B階段ではなく、F階段を避難路にすべきものと考えたであろうから、やはり本件の場合と同じように、客や従業員をB階段に誘導せず、むしろアーチより南に出てくる者があれば、ホールに戻るように指示し、これを押し止めたものと思料される。

8B階段へ避難誘導しなかつたことと右両名の過失責任

以上説示したとおり、被告人高木が仮に六階以下の階で火災が発生した場合を想定して、避難路等について十分調査検討のうえ避難訓練を実施していたとしても、右の場合に同被告人が立てたであろうと考えられる前記のような避難計画を前提とすれば、エレベーターの昇降路から多量の煙が噴き出して、クローク内を初め付近一帯に急速に充満しているという予想外の状況に直面して、煙の中を突つ切つてでもホール内にいる者らをB階段へ誘導するほかないとの判断を寸刻の間になしえて、同階段への誘導を指示することが、同被告人と同様の立場にあるなにびとをその立場に立たせても、果たして可能であつたか大いに疑問の存するところであり、また、仮に右誘導を指示していたとしても、本件死傷者の全員が無事B階段から脱出して、本件死傷の結果を回避しえたかは甚だ疑問であるといわざるをえない。

以上の次第で、被告人高木が、六階以下の階で火災が発生した場合を想定して避難計画を立て、これに従つて避難訓練を実施しなかつたことは、防火管理者としての義務を果たさなかつた重大な落度というべきではあるが、そのこと故に、B階段から客や従業員を避難させえなかつたことについて同被告人の過失責任を問うことはできないものといわざるをえず、そうであれば、この点について被告人桑原の指導監督が十分でなかつたことの責任を問うこともできない。

9救護袋の取替え若しくは補修の必要性とその可能性

したがつて、同店内から避難するためには、消防隊のはしご車による救援に頼るほかは救助袋を使用するしか方法がなかつたのであるが、同店においては、本件火災までに救助袋を使用しての避難訓練を一度もしたことがなく、また、救助袋の袋本体に破損部分があるため、消防当局から再三その取替え若しくは補修を指示されていたにもかかわらずこれを放置していたことが証拠上明らかである。

すなわち、第三三回公判調書中の証人森本政一、第三五回公判調書中の証人米田実の各供述部分、被告人桑原の司法警察員(昭和四八年五月二六日付)及び検察官(同年六月二五日付、同月二六日付)に対する各供述調書、同高木の司法警察員(同年五月二五日付)及び検察官(同年六月一六日付、同月一八日付)に対する各供述調書、「火災概況」等関係証拠を総合すると被告人高木がプレイタウンの支配人に就任した昭和四五年九月一日(防火管理者に選任されたのは翌四六年五月)以降、南消防署係官による同店への立入検査が昭和四五年一二月四日、翌四六年七月六日、同年一二月八日の三回にわたつて行われ、そのいずれの場合も係官から救助袋がねずみにかまれて破損しているので、補修するか取り替えて使用可能な状態にするよう口頭及び文書によつて指示され、同被告人は、そのつど被告人桑原に対し消防署からの指示事項を記載した文書を見せて一応報告はしていたものの、被告人桑原は、まさか救助袋を使用して避難しなければならないようなことが起こることもあるまいと安易に考えていたことと、費用のかさむようなことはなるべく後回しにしたいとの考慮から、同高木に対し、これらに要する費用を業者に見積りさせる程度のことすら指示せず、瞹眛な態度に終始し、被告人高木も、もともと出火した場合の対策については何も考えていなかつたうえ、同桑原の態度がいつも瞹眛であることから、あえて性急に救助袋の補修若しくは取替えを進言して、上司の機嫌を損ねたくないとの気持もあつて、これを破損したまま放置し、本件火災時まで救助袋を使用しての避難訓練を一度も実施しなかつたことが認められる。

しかしながら、被告人高木の司法警察員に対する昭和四八年五月二五日付供述調書、現場見取図(その一)、現場写真その(四)によれば、プレイタウンはビルの高層階にあるうえ、照明を暗くした同店ホール内には多数のボックス席が所狭ましと設けられ、営業中は常時二〇〇名位の客、ホステスその他の従業員が在店しており、しかも、店内の状況に通じないいわゆる一見客、酔客が多いことが認められることから、いつたん火災が発生した場合避難に手間どり、避難階段から逃げ遅れる者のありうることも十分予測できるのであるから、同店の支配人であり防火管理者でもある被告人高木としては、いつたん有事の場合の救助袋の重要性を認識し、自己の上司であり同店の管理権原者でもある被告人桑原に対し、救助袋の取替え若しくは補修をするよう積極的に働きかけてその実現に努め、かつ、救助袋を使用してその避難訓練を実施すべき業務上の注意義務を負つていたというべきであり、被告人桑原も、同店の管理権原者として、被告人高木からの報告により前記消防署の指示事項を知つた以上は、速やかに救助袋の取替え若しくは補修の措置を講じ、万一の場合における客、従業員らの安全確保に万全を期すべき業務上の注意義務を負つていたというべきである。

なお、「火災概況」によれば、昭和四六年一二月八日の立入検査時の救助袋の損傷程度は、直径一〇センチメートル程度の穴が一個所、同じく二、三センチメートル程度の穴が二、三個所あつたとされているのであり、右検査を実施した前記米田実の公判調書中の供述部分によれば、こぶし大の穴が二、三個所あつたように思うというのであるが、第四二回公判調書中の証人杉山卓の供述部分、同人ほか一名作成の「千日デパートビル出火事件における救助袋の損傷状態および降下実験復命書」と題する書面、司法警察員作成の「千日デパートビル七階に設置されていた救助袋の状況について」と題する書面の抄本及び検証調書によれば、袋本体入口上部の破れ穴は、二〇×一三センチメートルのもの一個所、一〇×一〇センチメートルのもの二個所、三二×二〇センチメートルのもの一個所の計四個所があつたほか、袋本体各所、舌布、座布団等に、小は一×一センチメートルから大は一二×六センチメートルまでの破れ穴が一〇数個所あり、また、誘導砂袋を投下するための麻ロープが切断し、更に、舌布上部左側の袋本体出口と把持環の間の展張ロープがほつれて切れかかつた状態になつていたことが本件火災後の調査によつて判明したことが認められるのである。ただ、右袋本体上部の破れ穴については、これが前記立入検査時と比べてかなり拡大されているのは、本件火災時に救助袋の上側を滑つて降下避難しようとした者らが足を掛けるなどしたため拡げられたということも考えられないことではない。

救助袋の破損状況は以上のとおりであるが、第四一回公判調書中の証人鈴木勇の供述部分及び同人作成の鑑定書によれば、袋本体の強度は新品と比べてほとんど低下していないことが認められる。しかしながら、右のような救助袋の破損状況に鑑みると、到底その維持管理が全うされていたとはいえないのであつて、被告人桑原及び同高木としては、消防当局の指示に従い、早急にこれを取替え若しくは補修する措置を講じるため、それぞれの責務を果たすべきであつたことは明らかである。

ところで、上田博巳の検察官に対する供述調書の抄本によれば、当時右救助袋の破損部分の補修だけなら一万五〇〇〇円程度、袋の布地部分全部を取り替えるとしても二〇万円程度の費用でできたと認められるところ、被告人桑原は、一応千土地観光の代表取締役ということになつているものの、前記のとおり五万円以上の費用の支出を要する場合は、親会社であるドリーム観光の承認を要するなど、その職務権限に大幅な制約を受けていたため、救助袋の取替えとなると、仮に同被告人がこれについて稟議を起こしていたとしても、早急にこれが承認されていたかは疑問の余地がないわけではない。しかし、救助袋の補修だけであれば、その費用は右の程度であるから、当然千土地観光限りで処理しえたと認められ、消防当局のこの点についての指示があつた時点で、同被告人にその気があれば早急に実現可能であつたこと明白である。また、取替えについても、その費用が二〇万円程度で、親会社はもとより千土地観光の会社の規模からみてもそれほど多額な金額とは思われないこと、消防当局から度々前記のとおり指示を受け、特に二度目の立入検査の際には、指示事項につき改善措置がとられるまでは救助袋に使用不能の表示をすることまで指示されていた経緯に照らすと、同被告人が救助袋の重要性を認識したうえ親会社を説得しておれば、多少の時期の遅れはあつたとしても、その実現は可能であつたと思料される。

なお、救助袋の補修若しくは取替えがなされる場合には、その機会に、付属品である誘導砂袋に結びつける投げ綱(麻ロープ)の取替えまたは補修もなされた可能性もあるところ、これらに要する費用の額は証拠上必らずしも明らかではないが、それ程多額なものとは考えられず、少なくとも救助袋の取替え若しくは補修の実現の支障となるほどのものではないと思料される。

10救助袋を使用しての避難訓練の必要性

そこで次に、もし救助袋の取替え若しくは補修ができ、これを使用しての避難訓練が実施されていたとして、果たして当時のプレイタウンにおいて質的、量的にどの程度の訓練が可能であつたかについて考えてみるに、まず、右訓練は、実際に降下訓練までするとなると、その性質上専門家である消防署の係官の指導の下に行う必要があると考えられるところ、前記森本政一の公判調書中の供述部分によると、同店を管轄する南消防署の当時の実情では、同署係官の指導の下に行う訓練は一年に一回程度しか実施できなかつたことが認められるので、被告人高木が右訓練を行うとしても本件火災までに一回程度しか行えなかつたのではないかと考えられること、前記米田実の公判調書中の供述部分によると、救助袋の避難手段としての位置づけないしその果たすべき役割について、消防当局自身も、火災の場合の避難方法としてはあくまでも避難階段を利用しての避難を優先すべきであつて、救助袋は本来の避難路から逃げ遅れたごく少数の者を対象とした補充的な避難方法であるに過ぎないとの考え方に立つていたことが窺われるので、消防署係官の指導がなされたとしても、その線に沿つた内容の指導にとどまつたであろうと考えられること、更に、前記森本政一の公判調書中の供述部分及び「火災概況」によると、被告人高木が同店支配人に就任中消防署係官の指導の下になされた同店の自衛消防訓練は、昭和四六年七月の一回だけであるが、その際行われた避難方法に関する指導内容も、前説示のとおり一つの避難階段からの避難がだめな場合は、反対方向の避難階段へ逃げるようにといつた程度のもので、全階段が使用不能になつた場合を想定した指導は全くなされていないと認められること等、以上の点を総合勘案すると、本件のようにB階段へ通ずる通路及びその余の避難階段がいずれも煙のため現実には避難路となりえず、在店者のほとんどが一個の救助袋もしくは消防署のはしご車に頼つて避難せざるをえないような場合を想定した避難訓練までなしえたとは到底考え難い。

もつとも、たとえ一回限りの前記の程度の訓練であつたにせよ、実際に救助袋を使用しての避難訓練が行われておれば、右訓練に参加した者らは、救助袋の使用方法、少なくともその入口の開け方程度のことは習得しえたと認められる。なるほど、救助袋を格納するキャビネットの正面には、その使用法として、「キャビネットを取除き、投げ綱の砂袋を先頭に投下し、袋本体を降下させ、入口枠を起して、下部取付完了を確認の上降下して下さい」と表示されている(検証調書及び現場写真二〇一五号)ので、日頃これを読んで頭に入れてさえおけば、使用方法に関する限り格別訓練をしなくても間に合いそうにも思われるのであるが、救助袋を使用して避難しなければならないような緊急事態に直面した場合は、単に知識として頭に入れていただけではあわててしまつて、日頃なら簡単にできるようなことでもできないことがありうることは十分考えられるので、やはりどうしても実際に救助袋を使用して訓練し、その取扱いの一連の過程を身につけておくべきであつたと考えられる。

しかして、右訓練を行うとしても、消防署係官の指導の下に行う訓練回数が前記の程度に限定されるとなると、右訓練もいわゆる総合訓練の一環として行うほかないと考えられるところ、この場合被告人高木としては、本来プレイタウンのホステスを含む全従業員を右訓練に参加させるべきであるが、それが事実上困難であるとしても、少なくとも、同店の自衛消防隊の構成員(「火災概況」76頁)は全員これに参加させるべき責務を負つていたというべきである。

そして、右訓練不参加者に対しても、救助袋は、誰が、いつこれを使用しなければならない立場に立たされるかは予測し難い点もあるので、実際の降下訓練は消防署係官の指導を要するものと考えられるので除くとしても、少なくとも、救助袋を降下可能な状態にするまでの一連の操作過程及びその出口が地上で必要人数(前記上田博巳の公判調書中の供述部分によれば、最低六名必要であることが認められる)によつて把持されたことを確認したうえでないと安全に降下できなという程度のことは、被告人高木において日頃指導訓練しておくべきであつたと考えられる。

なお、訓練は、消防署係官立会のうえの指導を要するものは別として、適宜自主的にできるだけ多く実施しておくべきであつたことはもちろんであるが、仮に本件までに数回自主的訓練を実施していたとしても、被告人高木に、消防署係官の指導内容以上の行き届いた訓練の実施を期待することは困難であるから、もし、これが実施されていたとしても、本件においてどれだけより効果があつたかは疑問なしとしない。

二救助袋を利用しての避難誘導及び結果回避の可能性ないし因果関係

そこで、次に被告人桑原、同高木が、それぞれ前記のような注意義務を尽し、救助袋の取替え若しくは補修をし、これを使用して、前記の程度の訓練をしておれば本件死傷の結果は避けられたか、以下この点について検討する。

1救助袋使用についての被告人高木の状況判断の可能性

まず、被告人高木が、どの時点で、従業員らを指揮して客らを救助袋を使用して避難誘導させることの決意をなしえたかの点について考えてみるに、前記のような同被告人らがなしえたと認められる訓練内容及び階下からの煙の店内への流入、充満状況に照らすと、同被告人らが、仮に前記のような避難訓練をしていたとしても、同被告人がアーチを通り抜けてクローク付近に行つた午後一〇時四二分過ぎころからF階段へ向つた午後一〇時四四、五分ころまでのわずか二、三分間のうちに、アーチから南への避難が困難である以上は、救助袋による避難しかありえないとの状況判断をなしえたかは極めて疑わしいといわざるをえない。このことは、救助袋を使用して避難訓練をしていた場合の他の従業員についても同様に考えてよいと思料する。たしかに、塚本一馬ら一部従業員、客らは午後一〇時四四、五分ころには既に救助袋の設置されてある窓際に行つていることが認められるのであるが、同人らも、当初から救助袋の使用しか避難方法がないとの判断のもとに同所に行つたものであるかどうかは疑わしく、たまたま救助袋のことが頭に浮かんだためにその方に行つたか、煙がホール内に流入してくるため、とにかく窓を開けようということで窓際に行つたところ、偶然救助袋を見つけたということであつたと推認するのが相当である。

2救助袋を使用して避難訓練ができていた場合と地上でのその出口把持の時期

次に、救助袋を使用しての避難訓練ができておれば、救助袋の投下及び地上での出口の把持がもう少し早くできていたことも考えられないではないので検討するに、以上にみてきたような諸事情を総合勘案すると、救助袋の投下を開始した時刻は、必ずしも本件の場合より早くなつていたとは考え難い。ただ、手順どおり投げ綱の砂袋を先頭に投下しておれば、袋本体が二階のネオンサインに引つかかることなく地上に到達していたであろうと考えられ、その時刻は、「火災概況」によれば午後一〇時四七分ころと認められる。しかし、消防隊員が近くに居合わせた市民らに呼びかけて協力を要請し、最低六名の心要人員を確保して救助袋の出口が把持されるまでには、更に一分程度は要したことも考えられるので、結局、救助袋を使用して降下可能な状態になつたのは、本件の場合よりもせいぜい一分程度早い午後一〇時四八分ころであつたと認められる。

3救助袋の設置された窓への誘導の可能性

そこで、仮に同被告人が午後一〇時四四、五分ころに至つて、救助袋による避難誘導を決意し、放送設備を利用するなどして、従業員に対し客を救助袋を設置してある窓際に誘導するよう指示していたとしたらどういう結果になつていたであろうか。前記のとおり、そのころには、既にバンドマンらは楽団室に、パートのアルバイトのボーイらのほとんどの者はボーイ室にそれぞれ引き揚げ、ホール内に残つていた一五〇名位の客、従業員らも、E階段、F階段、ホール窓際を目ざして、それぞれ避難行動を開始していたのであり、ホール内には南北二方向から次第に煙が流入充満しつつあつたのであるが、このような状況のもとで、右のような指示がなされたとしても、酔客も多いうえ、この時点では、ほとんどの従業員、客らが理性的に行動しうるような心理状態にあつたとは認め難いから、統制のとれた避難誘導は極めて困難であつたと認められ、仮に楽団室、ボーイ室に引き揚げていた者を除くホール内のほとんどの者が相前後して右窓際付近に詰めかけたとしても、客席のボックス等が窓近くまで設けられているため、それほど余裕のない窓際一帯は、押し合いへし合いで、収拾のつかない大混乱に陥つたであろうことは推認するに難くない、また、右の場合においても、F階段方向に避難しようとした従業員らもいたのであるから、その際、右の者らによつて同階段のシャッターが開かれていた可能性も十分あり、同階段から煙が流入していれば、右混乱に拍車がかかつたであろうことは明らかである。なお、楽団室、ボーイ室は、F階段のシャッターが開くまでは、ほとんど煙の流入していない安全な場所であつたことに鑑みると、これらの部屋にいた者らは、被告人高木の指示があつたとしても、右のようなホール内の煙、窓際における混乱状況を見た場合、果たしてホール窓際に出て行つたか疑問なしとしない。

4更衣室に居たホステスらについての結果回避の可能性

また、当時更衣室にいたホステス九名(別表一の19ないし25)及び衣裳係員、保安係員各一名(別表一の17、18)の計一一名については、前記のとおり午後一〇時四四、五分ころE階段へ向かつた一団は、換気ダクト開口部から噴き出す煙とその熱気のため、調理場南東角付近から先へは進むことのできない状態であつたのであるから、更衣室、事務室からホールに至る通路は、もはや避難路として使えず、したがつて、右ホステスらを救助袋のある窓際の方に避難誘導することは不可能であつたと認められ、右ホステスらの死傷の結果を回避する可能性はなかつたというべきである。

5救助袋を使用しての避難訓練ができていた場合と結果回避の可能性ないし因果関係

そして、以上のような状況下において、仮に救助袋の入口が開き、午後一〇時四八分ころこれを使用して降下が可能な状態になつていたとしても、後に説示するような降下所要推定時間、ホール内における致死限界推定時間等を総合して考察すると、ホール内にいた一五〇名位と楽団室及びボーイ室にいた者ら全員はもとより、ホール内にいた一五〇名位の者全員が右救助袋を利用して無事地上に脱出しえたとは到底考えられず、その一部は脱出しえたとしても、その者を特定するすべもないから、結局、同被告人が右の者らを救助袋のある窓際まで誘導しなかつたことと、本件被害者ら(更衣室にいた者らについては、前記のとおり結果回避の可能性がなかつた)の死傷の結果との間には、因果関係存在の証明はないというべきである。

そこで、本件具体的状況のもとにおいて、もし救助袋が従業員らによつてその入口を開けられておれば、その時点で救助袋のある窓際に居合わせ、また、その後にプレイタウン店内の他の場所から同所に到達し、かつ、救助袋を正常に使用して地上に無事脱出しえたと認められる者がいたかどうか、いたとすればその者を特定することが可能かを以下検討する。

(一) まず、救助袋が投下された時点で、救助袋のある窓際若しくはその付近に来ていたことが証拠上認められる者は、對馬征男(別表一の111、その後、救助袋の外側を滑り降りる途中転落死)、金子邦雄(同112、右同)、吉田美男(別表二の5、その後、タレント室からはしご車で救出)、上杉益美(同16、その後、救助袋の外側を滑り降りて脱出)、津沢健司(同38、右同)のほか、本件被害者とはされていないが、本泉昭一(その後、タレント室からはしご車で救出)、中屋博(その後、救助袋の外側を滑り降りて脱出)の以上七名並びに午後一〇時四八分ころ、最初に救助袋の外側を滑り降りようとして転落死した証拠上誰であるかを確定できない男性一名の計八名である。

(二) 救助袋の投下される直前まで救助袋のある窓際におり、その投下後再び同所に来たことが証拠上認められる者は、塚本一馬(別表一の96、その後、楽団室で死亡)一名である。

(三) 次に、その来た時刻は必ずしも判然とはしないものの、救助袋のある窓際に来たことが証拠上認められる者は、

(1) 右窓際で死亡していた中野満三(別表一の91)、上田清次(同92)、久木田信子(同93)の三名

(2) 救助袋の外側を滑り降りて脱出した佐藤千代(別表二の1)、江村つや子(同2)、前川慶子(同19)、藤井義雄(同21)、畑中秀利(同26)の五名

(3) 右江村つや子と一緒に右窓際まで行つたが、その後、ホール西側レジ前付近で死亡していた店名入江こと朴終任(別表一の58)

(4) 救助袋の外側を滑り降りる途中、転落死した店名八千代こと上野マサ子(別表一の107)、店名山形こと吉田艶子(同108)の二名及び右同様転落死したが、証拠上誰であるかを確定できない者八名の計一〇名

(5) 右吉田艶子と共に右窓際まで行き、その後、同窓からはしご車で救出された悦喜富美子(別表二の18)及び同じく右窓からはしご車で救出された証拠上誰であるかを確定できない者一名の計二名

(6) 右窓際近くまで行つたが、人が多いので東側の窓へ移り、その後、アーケード上に飛び降りた西田元幸(別表二の10)

の合計二二名である。

(四) 次に、その来た時刻は必ずしも判然とはしないものの、救助袋のある窓の南隣りの窓際若しくはその付近に来たことが証拠上認められる者は、

(1) 証拠上誰であるかは確定できないが、右窓から飛び降りて死亡した者四名

(2) 右窓際で死亡していた菖蒲義幸(別表一の88)、李末善(同89)、高橋八重子(同90)の三名

(3) 右窓からはしご車で救出された竹中たか子(別表二の4)、桑原義美(同24)、町田新六(同28)、郭大鮮(同42)及び証拠上誰であるかを確定できない者一名の計五名

(4) 右窓際に行つたが、店内から流出する煙で苦しくてたまらず、窓の外にぶらさがつているうち、北東側窓にはしご車が伸びてきているのを見つけ、同窓に行つてはしご車で救出された惣川勝弘(別表二の27)

の合計一三名である。

(五) 次に、その来た時刻は必ずしも判然とはしないものの、ホールの一番南側の窓際若しくはその付近に来たことが証拠上認められる者は、

(1) 証拠上誰であるかは確定できないが、右窓から飛び降りて死亡した者二名

(2) 右窓際で死亡していた濱本陽子(別表一の82)、尾崎真砂子(同83)、橋本さわ(同84)、乾厚子(同85)、山中ミツエ(同86)、安里恵美子(同87)の六名

(3) 本件被害者とはされていないが、右窓からはしご車で救出された大田治

(4) 右大田治と一緒に右窓際まで行つたが、その後、ホール西側ベニヤ板障壁内で死亡していた窪田司(別表一の35)

(5) 右窓際に行つたが、何人もの人が重なり合うようにして窓の外に顔を出して外気を吸つており、顔を出す余地がなかつたので鼻、口などを押えて辛抱していたが、がまんしきれなくなつて、人をかき分けて窓の外にぶらさがつているうち、力尽きてアーケード上に落下した吉田隆(別表二の3)の合計一一名である。

(六) 次に、その来た時刻は必ずしも判然とはしないものの、救助袋のある窓よりも北側の三個所の窓若しくはその付近に来たことが証拠上認められる者は、

(1) 証拠上誰であるかは確定できないが、救助袋のある窓の北隣りの窓から飛び降りて死亡した者三名

(2) 右三個所の窓からはしご車で救出された大石宣子(別表二の6)、高瀬英子(同9)、河中勝子(同11)、古沢モトエ(同13)、越部孝行(同14)、北川恒治(同15)、田畑寛典(同41)の七名及び証拠上誰であるか確定できない者二名の計九名

の合計一二名である。

以上の六七名の者が、救助袋が投下された時点ないしその後にホールの各窓際若しくはその付近まで行つていたことが明らかである。

そして、更衣室にいて死亡した松本ヨシノら九名(別表一の17ないし25)及び同室からはしご車で救出された福田八代枝ら二名(別表二の7、8)の計一一名については、既に初期の段階でホールに至る可能性がなかつたことは前記のとおりであり、また、調理場内で死亡したことが証拠上認められる山本年夫ら三名(別表一の13ないし15)及び同所窓からはしご車で救出されたことが証拠上認められる東坂巖ら二名(別表二の12、20)については、調理場内からは救助袋周辺の様子が全く分らないことに鑑みると、救助袋が正常に使用可能な状態になつていたとしても、同人らがホール窓際に行つたかは、かなり疑わしいといわねばならない。

また楽団室で死亡したことが証拠上認められる西原佐一郎ら二名(別表一の94、95、なお、塚本一馬も同室で死亡しているが、同人については前記のとおり)及びタレソト室、楽団室からはしご車で救出されたことが証拠上認められる滝川光子ら一三名(別表二の17、22、23、25、29、31ないし37、39、なお、吉田美男もタレント室からはしご車で救出されているが、同人については前記のとおり)、本件被害者とはされていないが、右各室から右同様に救出されたことが証拠上認められる片岡正二郎、曾我部稔、高橋宣二、福田秀樹(なお、本泉昭一もタレント室から右同様に救出されているが、同人については前記のとおり)、それに被告人高木、そのほか証拠上誰であるかを確定できないが、右各室から右同様に救出されたことが証拠上認められる八名の計二八名については、右関係者らの供述によれば、右各窓、特に楽団室の窓からは、救助袋のある窓付近の状況が十分確認できたことが認められるので、もし、右の者らが、救助袋が正常に使用できていることを知れば、救助袋のある窓際の方に移動することも考えられないことではない。

その余の店内各所で死亡した者の中にも、前記窪田司や朴終任と同様、いつたんはホール窓際に行つて、引き返した者が若干いるかもしれないが、右二名以外は証拠上これを確認できない。

以上検討したところによれば、到着した時間に若干の前後はあれ、救助袋が投下された当時、ホール内の六個所の窓際若しくはその近くには合計六七名が行つていることが明らかであるのみならず、そのほかにも、救助袋が正常に使用できる状態であることを知れば、ホール窓際に移動してきたかもしれない者らがいたことは推認するに難しくないのである。

それでは、これらの者が、救助袋が正常に使用できる状態になつていたとすれば、全員無事地上に脱出できていたであろうか。少なくとも、これらの者のうち救助袋投下当時その窓際にいた者や、救助袋の外側にせよ、これを現に使用して降下を試みている者らは、無事地上に脱出できたのではなかろうかとも考えられないではないのであるが、

(イ) 前記のとおり午後一〇時四八分ころF階段のシャッターが開き、同階段から煙が一時にホール内へ流入してきたため、ホール内の煙は急速に増量充満し、これがホールの各窓に向かつて流れて行き、各窓際若しくはその近くに避難していた者らの呼吸を次第に困難にし、これに加えて、午後一〇時四九分ころには店内が停電したため、これらの者の不安感、恐怖感を一層強めることになつたと考えられること、

(ロ) また、検証調書、現場見取図等関係証拠によれば、ホールの六個所の窓は、幅が一六〇ないし一八〇センチメートル程度、高さが一メートル程度のものであるから、右各窓から身を乗り出して、背後から噴き出す煙を避けながら外気を吸いえたのは、前記六七名中せいぜい半数程度ではなかつたかと考えられること、

(ハ) 「火災概況」によると、ホール北東側窓下には午後一〇時五一分ころ、救助袋のある窓の下には同五二分ころ、相次いではしご車が到着し、特に前者は、同五三分ころにはしごの伸長を開始し、同五四分ころからホール北東側窓からの救出を開始しているのにもかかわらず、その救助をも待ちきれないで、一〇時五〇分前後から、命がけで救助袋の外側を降下しようと試みる者、窓から飛び降りる者が続出していることが認められることに照らせば、ホールの窓際に来ていても、その窓から身を乗り出して外気を吸いえない者らは、煙と熱気のため極限状態あるいはそれに近い状況に追い込まれていたと推認しうること、

(ニ) 検証調書、救助袋見取図等によれば、救助袋は袋本体の入口を開口した場合、床から七八センチメートルの高さに開口部が位置し、その入口枠の内径は、横五七センチメートル、縦六二センチメートルであるところ、その取付け金具と窓の敷居との高低差が三センチメートルもあることや、右敷居の桟が4.5センチメートル内側に張り出していること、また、入口枠支持棒両端と取り付け金具両側アームを結ぶワイヤロープが入口枠高さに比べて短か過ぎることなどのため、入口枠を起こした場合、これが垂直に立たないで前に一三度傾斜し、誰か介添する者がいなければ救助袋内に入ることが困難な状態にあつたことが認められること、

(ホ) 第四一回公判調書中の証人小田龍生、第四二回公判調書中の証人上田博巳の各供述部分等関係証拠によれば、救助袋による七階からの降下実験をしたところ、五三秒ないし一分程度の間に二〇名位降下可能であつたというのであるが、右実験は、本件の場合とは降下時の諸条件が全く異なるので、右実験結果は余り参考にならない。本件の場合は、前記の諸事情を考慮すると、もし救助袋の入口が開いていたとすれば、特にF階段からの煙が流入するようになつて以後は、その入口前は、われ先に避難しようとする人々によつて、収拾のつかない混乱に陥つたことが十分考えられ、一部入口に体を入れることに成功する者があつても、一分間に一体どれほどの人数が降下しえたか、にわかに計りかねるのであるが、強いて推定するならば、右実験結果の三、四倍の時間を要したのではなかろうかと考えられること、

(ヘ) 第四六、第四八回各公判調書中の証人若松孝旺の供述部分、鑑定人川越邦雄ほか二名作成の鑑定書三通を総合すると、多少の誤差はあり、かつ、プレイタウン店内の個個の場所によつても相違はありうるが、同店内に下階からの煙が到達して一〇分程度が、煙による致死限界であることが認められること(もつとも、本件では右致死限界時間をかなり越えてから後にはしご車によつて救出されている者も相当数いるのであるが、同じく窓際まで来ていながら、その生死を分けた原因は、主として、窓から身を乗り出して外気を吸いえたか否かによるものと思われるが、そのほか、各人の体力、煙に対する対応の仕方等にあつたと考えられる)、

(ト) 本件において、正常な方法ではないにしても、とにかく救助袋を使用しえている者も、それを可能にしえたのは、たまたま救助袋の入口が開かなかつたため、その周辺に集つていた者らの中には、そのような危険な方法による使用を躊躇し、あるいは断念して他の窓際に移動して行つた者も相当数いて、救助袋の前がそれほど混雑していなかつたためとも考えられること、

以上の諸点を総合勘案すると、ホール窓際に来ていたと認められる前記六七名の者全員が救助袋を正常に使用して無事に避難脱出できたとは到底考えられないことはもちろんのこと、本件で現に救助袋投下時その窓際にいた者、救助袋の外側を滑り降りようと試みた者らも、その全員が救助袋を使用用して無事に避難脱出しえたかどうかは極めて疑わしいといわざるをえず、仮に使用しえた者が相当数あつたとしても、その者が誰であるかを特定すべくもないのである。

以上の次第であるから、仮に被告人桑原、同高木が、それぞれ前記のような注意義務を尽して、救助袋の取替え若しくは補修をし、これを使用して、同被告人らに要求可能な程度の訓練をしていても、本件被害者らの死傷の結果が避けられたとの証明はないといわざるをえない。

第九  結論

よつて、被告人三名についてはいずれも犯罪の証明がないものといわざるをえないから、刑事訴訟法三三六条により無罪を言い渡すこととし、主文のとおり判断する。

(大野孝英 楢崎康英 沼田寛)

別表 一

死亡者一覧表

番   号

1

118

氏   名

甲野花子

甲山梅子

死亡当時の年令

26

41

死亡日時

(昭和年月日時ころ)

四七、五、一三

午後一一時

四七、五、一七

午前一〇時一五分

受傷並びに死亡場所

千日デパートビル七階

「プレイタウン」店内

番号97に同じ

死   因

一酸化炭素中毒

外傷性ショック

別表 二

受傷者一覧表

番   号

1

42

氏   名

丙藤一枝

大太郎

受傷当時の年令

34

39

受傷日時

(昭和年月日時ころ)

四七、五、一三

午後一〇時五〇分

受傷場所

千日デパートビル七階

「プレイタウン」店内

及び同ビル東側路上

受傷名

一酸化炭素中毒

左肺虚脱等

一酸化炭素中毒

受傷程度

(加療期間(約))

一年七か月

二日

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